紫煙


 男が目覚めたとき、がらんとした家に妻と子の気配はなかった。窓の外には穏やかな晴天が広がっている。太陽が高いところを見るともう昼近いようだ。きっとまた妻と子は二人で休日を楽しみに出かけてしまったのだろう。
 一緒にいれば何のかんのと言われて気詰まりだが、こうして何の相談もなく置いていかれることに慣れてしまうのも少々悔しい。といってそれを口に出せば、妻はかさにかかっていつまでも寝ているあなたが悪いのだとか、そんなことを言うのなら休みを取ってどこかへ旅行に連れて行けだとか言うに決まっている。
 男は不満そうな妻の眼差しを思い起こしてやはり一人でのんびり寝ている方がましだと思い直し、横たわったまま再び目を閉じた。
 しばらくそのまま転がっていたが、再び眠りが訪れる気配はない。やがて尿意を催した男はぼりぼりと下腹を掻きながら立ち上がった。


 トイレから出た男は煙草と安物のライター、そして小さな灰皿を持って子供部屋のドアを開けた。雑然とした部屋には遊びかけの玩具が散らばっている。その中の一つ、巨大な花弁型のジオラマを眺めるのが、最近こうした休日の男の習慣となりつつあった。
 息子は一時実に熱心にこのジオラマで遊んでいたようだが、最近は飽きたのか部屋の隅で忘れられたかのように放置されていることが多い。にも関わらずジオラマは小さな光を点滅させ動き続けている。目を凝らすとジオラマの世界ではまるで生きているかのように小さな人間たちや動物たちが動き回っているのだ。
 ぼんやりとジオラマを眺めながら男は煙草に火を点けた。
 男にはどういう仕組みでこのジオラマが動いているのかは分からない。いやまず、このジオラマでの遊び方そのものを男は知らない。息子に聞けばそれなりに教えてくれるのだろうが、男は特に知りたいとも思わなかった。別に面倒な操作がしたいわけではない。息子と共通の話題ができればそれなりに面白いかも知れないが、息子もこのジオラマにもうそれほどの興味があるようでもないし、何よりも下手な質問をして妻にそっくりの莫迦にした眼差しで息子に見上げられるのは不快だ。
 ただ、ちっぽけな人間たちがそれなりに深刻な様子で動き回っているのを見るのはどことなく優越感をくすぐられた。奇天烈な妖怪がどこからともなく湧き出して人間を襲う様子のリアルさは何度見ても面白かった。そして。
 男は薄いプラスチックの蓋をそっと持ち上げると、煙草の煙を口の中に溜めてふうっと吹き掛けた。ジオラマの中ではたちまち突風が巻き起こり、騒然とした気配が立ち上る。その大騒ぎの様子が可笑しくて、男はにやにやと笑みを浮かべた。
 ジオラマを壊して息子に怒られるのは男の本意ではない。男はすぐに蓋を戻した。ところどころ蓋から突き出ている部分をきっちり蓋の穴に合わせることも忘れない。それから男は仔細に自分の悪戯が引き起こした騒ぎに見入った。
 ジオラマの中心に近い山の中腹で、上半身は女、下半身は豹か何かの化け物が泣き叫んでいた。声までは聞こえないが、今の騒ぎに巻き込まれたのだろう。  化け物の上半身で小さな乳房が剥き出しのまま揺れるのを男は不躾な眼差しで眺めた。どうせならもっとグラマーだといいのにと男は思ったが、子供用の玩具であることを考えればそれは筋違いな欲望というものだろう。
 男は暫くジオラマを見ていた。そのうちに騒ぎが収まったのでもう一度煙を吹き込んでやろうかと男が考えたとき、家の外で車が止まる音がした。妻と子が帰ってきたらしい。
 子供部屋に入り込んでいることが知れれば何かと面倒だと、男は蓋に伸ばしかけた手を止めてそそくさと立ち去った。
 無人となった部屋の隅では、巨大なジオラマが尚も明滅を繰り返していた。

(了)
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 亜美さまのサイトの禁じ手部屋で「流れ落ちる砂」を読んでからBBSに行ったら、すいまさんが「東王父」はないのかと書かれていました。で、ついつい。‥‥冗談ですので笑って許してやってください。



冗談万歳(笑)!スバラシイですぽぺさん。多摩田園都市というか金妻地区というか(どこやねん)、そのへんに住んでそうな一家が・・・(笑)そして私はこれを読んで萩尾望都『マージナル』を思いだしてしまったのです。で、こちらも冗談ですんで許して下さい(悪徳便乗)。→H.v.H.版マージナル