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『風』〜sirocco〜(中) 荷馬車の持ち主は、その学生の身なりを見、また「産県」という行き先を聞くと 「ああ松塾だね。」 と、あっさりそう言った。 「昨日、青鳥が来たのですよ。」 半獣だという学生が、そう神妙に言った。 「青鳥?」 「主上から松伯にです。お一人で訪ねてゆくから麦州を案内いたせとご命令で。」 「そう。」 旅人の少女はあまり関心もなさそうにそう言った。 学生は続けた。 「それから松伯は、何しろ主上がご心配で落ち着かないのです。」 「ふーん。」 生返事しかしない少女に、学生は真剣な声で言った。 「あまりご無茶をされませんように。」 そして少女の澄んだ蒼い瞳を見据え、黙って頷いた。 少しの沈黙があった。 「怒っているかな。」 少女の呟きに、学生が眉を上げる。 「松伯は、怒っているかな。」 「さあ・・・。」 学生は苦笑をひとつ漏らすと、それきり黙った。 松塾には、玄関を入ったところにまず大広間がある。 外部のしかるべき人間が謁見を果たすところは、まずここである。 「お、お客か。」 そこにいた別の学生に話しかけられ、半獣の学生は小さく頷いた。 「ここでお待ちください。」 そして少女にそう言い置くと、別の学生に何事かを耳打ちし、奥の部屋に消えて行った。 この大広間の壁には、一面に肖像画が描かれていた。 松塾出身者で、ひとかどの名を上げた人物たちが並んでいる。 はるか昔の人物から、最近の人物まで。 あ・・・ だが少女はあることに気付いて、瞬きをした。 肖像がなく、黒い影と名前だけが記されている人物が何人かいるのだ。 ・・・顔がわからないのかな。 彼女が前回、ここを訪れた時も感じた疑問だった。 あの時は、それを問う余裕などなかったのだが。 あの時。 登極したばかりの女王が、稀代の逸物だと言われた男にはじめて会った場所も、ここだった。 女王の、会ったことのないこの人物に対する印象はあまり良くなかった。 どの王に請われても、決して政事に復帰しようとはしなかったという人物。 麦州に隠遁し、遠くから尭天を眺めながら、この国を導いて行く仕事には決して携わらなかったという。 その力を、誰よりも備えていたというのに。 「未来への希望に溢れる瑞々しき新王が、この隠棲の身の老学者に何の御用でございましょう。」 その淀みない口調と、悟りきった瞳に対して沸いたのは、稚(おさな)い苛立ち。 気がつくと、彼を睨みつけるようにして口を開いていた。 「貴公は、ご自分を怠慢だと思ったことはないのか。」 周囲にいた彼の弟子たちが騒めいた。 後ろに控えていた台輔や随従の者たちも、主上、と小さく嗜めの声を発した。 松伯の名は、慶東国の知識階級で知らぬ者がない。 その有能さを恃(たの)み、官に迎えようとした王が随分といたという。 けれど、彼は一度たりともそれを承諾したことがない。 頑固なのか、偏屈なのか。 いずれにしても、王といえど尋常の依頼の仕方では聞き入れてはくれまいと、皆覚悟していた。 まず、下手に出てみようというのが、新女王も納得した作戦だったはずなのだが。 「怠慢とは、如何に?」 男の声は、寸分の揺らぎもなかった。 それがさらに、まだうら若い女王を苛立たせる。 「この国は貴公の力を必要としている。他の者には出来ないのだ。それなのに、その力を全く使おうとせず、隠棲と称して徒らに貴公の力と時とを無駄にしているではないか。」 「主上!」 後ろに跪いていた臣下の一人が女王の裳裾を引っ張った。 だが、止まらなかった。 「それを怠慢と言わずして何と言う。」 カチャリ、と音がした。 男の後方にいた弟子の何人かが、刀に手をかけていた。 男は、まっすぐに睨みつけてくる少女の青い瞳をじっと見つめた。 一寸の曇りもない、晴れた空の色をしたそれを。 その沈黙が一瞬だったのか無限に近かったのか、もはや当事者にはわからない。 「瑞祥。」 男が、傍に控えていた弟子の一人の名を呼んだ。 「はい。」 足下に跪いたその弟子に、松伯はたった一言、命じた。 「支度を。」 「は・・?」 聞き返した弟子に、もう一度命じる。 「旅の支度を。」 そして、女王に向かって穏やかな微笑みを向けた。 「金波宮とは、お懐かしい。」 一転して見せられた優しい微笑みに、ふっと気持ちが緩むのを感じたのは一瞬。 松伯が任官を承諾したことがにわかに信じがたい随行者たちが後ろで騒めいているのを微かに感じて。 だがその男の、吸い込まれそうに深い瞳の黒い色を見つめた瞬間、何故か再び鼓動が早くなった。 戸惑いに、目を伏せる。 「あの・・・。」 だが、それでも彼女は、自分が取らねばならない礼儀を思い出した。 「感謝・・・します。」 目を伏せたまま拱手した。いまや慶東国全体に名を轟かせている人物への、王としての敬意だ。 「お顔をお上げください。」 すると静かに、男が口を開いた。 だが、何故か急に顔中が熱くなって、顔を上げることが出来なかった。 やがて、男の手がすっと頬に置かれるのを感じ、反射的に少女は顔を上げた。 両手で少女の顔を前に向かせ、松伯は言った。 「お顔をお上げください。ここ麦州では、卑屈な人間は人殺しよりも重い罪人です。」 まっすぐに新しい女王の瞳を見据えながら。 扉が開き、少女の良く知った顔の男が姿を現した。 その後ろから、何人かの弟子たちもともに入って来る。 男の表情は何も感情を現しておらず、読みにくい。 やがて男が、少女から二歩分ほど離れたところで跪礼をした。 「主上には、ご無事のご到着にてたいへんよろしゅうございました。」 必要以上に堅苦しい仕草に、少女はふうと溜め息をついた。 「やっぱり怒ってるな。」 男は答えない。 そして、その場にいた他の弟子たちも揃って跪礼する。 女王が、若干の皮肉を乗せて問うた。 「麦州の民と松塾の学生は、王といえども王だというだけで膝を折ったりはしないと聞いたが。」 それに答えたのは、落ち着いた声の女性の弟子だった。 「松伯の撰ばれた王は、特別にございます。」 他の弟子も、その言葉を肯定するかのように皆小さく頭を下げた。 「お疲れでございましょう。お部屋のご用意はすっかり出来ておりますので、どうぞゆっくりお寛ぎくださいませ。」 松伯が何も言い出さないうちに、女の弟子が立ち上がって女王ににっこり微笑みかけた。 女王が戸惑ったように松伯に視線を向けると、彼は不機嫌そうに女弟子に問うた。 「もう出来ているのか。ご到着は明日あたりだろうと言っておいたはずだが。」 「昨日松伯が男の学生は皆暇を出すだのなんだのおっしゃるので、男手が頼めなくなっては大変と、昨日のうちにすっかり調えてしまいました。」 「あれは冗談だ。」 「あれそうでございましたか。とてもご冗談をおっしゃっているお顔ではございませんでしたので、勘違いをいたしました。申し訳ございませぬ。」 言葉ほどには済まなそうな顔をせずに淡々と言い返して、そして女王に向かって優しく微笑んだ。 「さ、主上、こちらでございます。」 「あ、うん・・・。」 女王が再度、戸惑った視線を男に向けると男は静かに一礼した。 「では本日はごゆっくりお休み下さい。私は仕事がありますので、自分の部屋におります。」 無表情のまま去って行く男を見送り、女王はもう一つ、溜め息をついた。 「やっぱり、怒ってるんだな・・・。」 呟くと、案内役の女の弟子がにっこり笑って言った。 「お仕事が溜まっているのは事実(ほんとう)でございますよ。なにしろ、昨日主上からの青鳥(しらせ)をお受け取りになってから、お部屋お廊下構わず苛々と行ったり来たりされるばかりで、まあ落ち着きのないことったら。」 その言葉に、他の女弟子たちが顔を伏せてくすくすと笑った。 |
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