『風』〜sirocco〜(後)


そうっと扉を開き、女王は男が黙々と仕事をしている部屋に滑り込んだ。
一心不乱に書類に向かっているかに見える男に、背後からそっと近付く。
「愛しい方、長旅でお疲れの方は既にご就寝ではありませんでしたか。」
いきなり男が口を開き、少女ははっ、と歩みを止めた。
「わかったのか。」
憮然とした問いに、はじめて男が振り返る。
「この私が、貴女の香を忘れるとお思いか。」
優しい声に安心し、我が儘を言いたい気持ちも浮かんだが、少女は当初の目的を思い出した。
「ごめん・・・。」
小さく、呟く。
「心配かけた。」
男は、一瞬の間何も反応しなかった。
あるいは、少女がいきなり謝ったことが、意外だったのかもしれない。
やがて、ふっと息を吐いて男が言った。
「やけに神妙ではありませんか。おねだりされたいことがおありで?」
図星をさされた女王が、顔を顰める。
「何でもわかっちゃうんだな。蘭桂には。」
「申し上げたでしょう。寝ても覚めても貴女のことばかり考えているので、たいていのことは判ってしまうのですよ。」
穏やかな口調ながら熱のこもった言葉に、少女の頬が上気する。
「・・・・だって、視察に連れて行って貰えないと思ったんだ。」

慶東国の新しい風は、麦州から吹くと言われる、その麦州の土地を、民を、賑わいをこそ見たいと思っていたのに。

「ほほう、では私がお連れしませんとお断りしたら、主上はおとなしくお部屋に籠っておられるおつもりだったのですか。」
「う・・・。」
松伯が静かに指摘した言葉に、うら若い女王は言葉に詰まる。
「一人で、出ていったかもしれない。」
「そうなると私はまたぞろ、御身を憂えて食事も喉を通らない滑稽な男に成り下がって弟子たちの笑い者にならねばなりません。」
そう言って男は仰々しそうに顔を顰めた。
「で、でも・・・私は金波宮ではちゃんとおとなしくしていたぞ。毎日『慶史赤書』をしっかり読んでいたんだ。」
「それは御立派でございます。」
「・・・・そうしたら、赤子が頻繁に金波宮を抜け出して各地に視察に回っていたと書いてあったので、読んでいるうちに真似したくなったのだ。」
「主上!」
「和州の乱の赤子は、凄く格好良いよな。いきなり麒麟に騎乗して登場するところなんて最高だ!」
目をきらきらと輝かせる主を見ながら、松伯と呼ばれている男は盛大な溜め息をついた。
「台輔がお聞きになったら、さぞかし嫌な顔をされることでしょうな。」
「もっともだ。あいつに乗ったら、振り落とされそうだな。」
そう言って嫌そうな顔をする少女に、男はやはり優しく言った。
「さあ、明日主上とお出かけするためには、仕事を終わらせないといけません。主上はごゆっくりお寝みください。」
だが、女王は不満だった。
久しぶりに会ったのに、まだいつものように抱き締めてもらっていない・・・・
少女は、すたすたと男に歩み寄った。
そして、男の膝の上に、ひょいと乗った。
「困った方ですね。仕事の邪魔をなさるのですか。」
少なくとも表面的には、決して動揺を見せない男の大人の余裕が、いつも悔しい。
「ここにいるだけだ。それでも邪魔か。」
自然、口調が険しくなった。
だが、男は飄々と答える。
「十分邪魔です。貴女がこのように側にいらっしゃると、私はこの黒い絹糸のような髪に触ることですとか、薄紅の薔薇の花のような頬に口付けをすることですとか、この青空よりも深い瞳と見つめ合うことですとか、そのようなことばかり考えてしまって仕事のことなど忘れてしまうからです。」
「ば、莫迦!何を言うんだ!」
いきなり赤面して身じろぐ女王を、だが男は強く抱き締めて動きを封じ込めた。
「貴女は、慶東国の宝なのです。たくさんの民が待ち望んでいた女王なのです。どうか、お忘れなきよう。」
男の言葉は熱かった。
女王は、もう知っている。
この男が、こうして熱を込めて語る言葉は、いつも涼やかな声音で語る冢宰としての言葉とは、異質のものであること。
「貴女を案ずる者のことを、お考えください。」
その言葉は、やり手の冢宰が無謀な女王を嗜める言葉では、ない。
だから。
だから、答えた。
男の腕にくるまれたまま。
「あの、あのな、蘭桂。慶史赤書を読んでいたらな、赤子も、叱られてるんだよね。」
ひょいと金波宮を抜け出しては、時々怪我まで負って帰ってくる果敢な女王だった。
「御身を大事になされよと冢宰に叱られて、赤子はこう答えたって。『私の帰る場所はいつも金波宮の中にある。それを信じよ』と。」
「はい。」
「でもわたしならこう言いたい。わたしは『ここ』に帰って来ると。」
「「『ここ』とは?」
「だから…、おまえの腕の中だ。」
男の肩に顔を埋めたままの少女が、耳まで赤くなる。
「わたしは、絶対『ここ』に帰って来るから、だから、信じてくれ、蘭桂。」
男の名を呼ぶその声は、いつになく甘くて。
艶を乗せていて。

「蘭桂。」
それは、遠い日の記憶。
彼の、師ともいえる人物がいつになく真剣な眼差しで言ったことがある。
「女は、生まれながらに殺し文句を知っている。」
若かった自分には、よくわからなかったのだが。
「それが王に撰ばれるほどの女だと、一人の男の一生など簡単に縛り上げてしまうほどの言葉を、生まれながらに知っている。」
「それは、どういうことですか?」
この国の冢宰としても、はるかに先輩であったその人物は、その問いには小さく笑むだけで答えてくれなかったのだが。

「蘭桂。」
脳天を、心の臓を、甘い鎖で縛り上げるその声が、再び耳を掠める。
「わたしは、絶対に『ここ』に帰ってくる。それではいけないか。」

貴女は知らぬ。
古(いにしえ)の女王はその時冢宰に、同じ言葉を語ったのだと。
貴女はまさにいま、かの女(ひと)と同じ言葉を発しているのだと。
史書には相応しくないからと、史家はその通りに残さなかったのだが。
貴女は、知らぬ。

「私がいなくなったら、どうなさるおつもりなのです?」
思わず、問いを口にしていた。
意地悪ではない。
ただ、純粋な好奇心。
試してみたいという、純粋な・・・
「私が貴女より先に天命を終えてしまったら、どうなさるのです?」
晴れ渡った空を写し取ったような、深い青色の双眸が、じっと男を見つめた。
はじめて逢った、あの日のように。
「許さぬ。」
まっすぐに、国一番の智恵者とも言われる男に非難の言葉を浴びせたあの日のように、少女はきっぱりとそれを口にした。
「そんなことは許さない。」

松伯と呼ばれている男は、そっと手を伸ばして少女の髪を撫でた。
「御意に。」
まっすぐ目を合わせたまま、言う。
貴女は、いつか慶国史上に残る偉大な女王と並ぶだろう。
並んで遜色のない、名声を得るだろう。
そんな確信を胸に、男はこの上なく優しげに微笑んだ。

一度ならず二度までも、かの女王と同じ応(いら)えを返したのだから。

髪に伸ばされた手をそっと握り、少女はそれに口付けた。
そして、甘えかかるような視線を男に送った。
接吻をねだるようにそっと目を閉じた少女の頬を、男が両手で包み込んだ。
「心配料は明日以降にたっぷりといただきますので、今宵はもうおやすみくださいませ。」
そして、やや不満そうに頬を膨らます少女の唇に、掠めるような口付けを落とした。


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