『風』〜sirocco〜(前)


その見るからに立派な城門をくぐり、旅装の少女はほっと息をついた。
城門をくぐり抜けたところで立ち止まり、周囲をひとしきり見回す。
「さすがに違うな・・・。」
苦笑めいた溜め息をつき、再び歩き出した。
途端、周囲に並んでいた店から声がかかる。
「べっぴんの娘さん、甘酒の一杯でも飲んでいかねえか!」
意気揚々の、活発な声が店々から続々とかかった。
景気の良さの証明である、民の明るい声。
・・・嫌になっちゃうな。
少女は自嘲めいた笑みを浮かべ、立派な構えの店が並ぶ通りを見上げた。
・・・まるで、王などいなくてもいいみたいじゃないか。

これまでの旅路の間も、国の復興がかなり進んでいることが見てとれた。
王が不在の間も民が飢えないようにと、慶国には各地に義倉が用意されている。
ずっと昔に、今でも名君と語り継がれる胎果の女王が整えたものだ。
彼女の名声は今でも民草一本一本にまで浸透していて、それだけに今回立った王が女王だったことが、大きな期待となって現れた。
想像したほどに国が荒れていなかったことは、新しい女王を安堵させた。
だが。
ここは、特別だ・・・

「麦州へようこそ。娘さん。」
既に甘酒を注いだ杯を目の前に差し出され、少女は足を止めざるを得なくなった。
「疲れたろう。娘さんの一人旅じゃ気も張る。これは俺からの労いだ。」
気のよさそうな青年の言葉に、少女は溜め息をついた。
「麦州はよほど豊かなのだな。」
そして杯を受け取ると、小さく笑ってみせた。
「貰ったきりには出来ないな。昼餉をいただくことにするよ。」
「へい毎度っ!」
待ってましたと、青年が店へと案内した。

慶東国は王がいなくても、それほどに荒れないという。
その中でも、荒れるどころか王がいない間、民の力で発展さえする豊かな地方があるという。
麦州。
赤王朝の優等生と言われたこの地方は、民の一人一人にいたるまで、今でもそれを誇りとしている。
「麦州は、王など要らないみたいだな。」
呟いた少女に、店の給仕や他の客がとんでもないと首を振った。
「とんでもない。麦州の民はどこの民よりも新王の登極を喜んでいるんだ。特に今回は女王だからね。赤子の時代に女王とともに慶の発展を担った民の血が、またぞろうずうずと騒ぎだすって寸法さ。」
「だけどなあ。」
他の客が、明るい声ではあったがぼやくように言った。
「松伯を主上に奪られちまったのは、ちょっとした誤算だったな。」
その声に、別の客が反論する。
「そんなことないさ。何と言ってもあの松伯が政事に返り咲いて下さったんだから。」
「そうそう。」
店の給仕である女が、会話に割って入った。
「ずいぶん長いこと、どんな王に請われたって、麦州を出ようとされなかったんだから。松伯は。」
「へえ、そうなの。」
さりげなく相づちを入れた旅人の少女に、女が意味深に笑った。
「そうよ。でもね、あなた知ってるかわからないけれども・・・。」
その女の言い方で周囲の客たちは何事かを悟ったのか、意味ありげに小さく笑った。
「松伯はとにかく主上にぞっこんなの。ふふ。」
「ははは、なにしろ主上はお綺麗だからね。」
客たちは、楽しげに笑いながら言う。
そして少女が信じてなさそうな顔をしているのに気付いた客の一人が声を落とした。
「もう、男と女の仲だという話だよ。」
「まだそんなんじゃないっ!」
「え?」
いきなり声を荒げてしまった少女は顔中を真っ赤にしながら、それでもしどろもどろに取り繕う。
「あ、ええと、その、そういうのって…、良くないとか思わないのか・・・?」
だが、麦州の民たちは、戸惑ったような表情をするだけだった。
「そりゃ・・・なあ。」
「うん、他の人間だったら何がしか考えたかもしれないけどな。なにしろ松伯だから。」
「そう、それに松伯と来た日には傍目にも露に幸せそうだからな。隠そうともしないし。」
「そ、そうなのか・・・?」
少女の戸惑い気味の表情を見た客たちはそれを違う意味にとったのか、慌てたように言葉を継いだ。
「ああ、若い娘さんに相応しい話じゃなかったな。すまんすまん。」
そして取ってつけたように話を繋いだ。
「いずれにしろ、松伯が冢宰になられたんだから、慶東国もしばらくは安泰ということで。」
「でもなあ、おれとしてはやっぱり麦州にいて欲しかったな。」
最初に、松伯を奪られたのは誤算だと言っていた男が未練がましく言ったところに、新たな客が現れた。
その客が、ぼやいた男の肩をぽんと叩く。
「嘆くな、兄弟。知っているか。赤王朝の冢宰も、元麦州侯だったんだぞ。」
「お、学生さん。」
周囲の客たちが、自分よりも若そうなその新しい客のために席を譲った。

ほんとうだったんだ・・・・
話には聞いていた。
麦州で、「学生さん」といえば「松塾」の塾生だ。
長きに渡って優秀な人材を輩出して来たこの塾の名声は高い。
麦州の民は、「麦州に松塾あり」を最大の誇りとしており、そこの学生を無条件に尊重している。
松塾の学生となれば、麦州のどこでも大切にもてなされるという。

慶東国の風は、麦州から吹く。

国の内外から、そう言われて久しいこの地方の気風を形成(つく)った者がいた。
新進の思想にもすぐに馴染み、時代の流れをみずから巻き起こすという、力溢れる民。
何者にも、王にすら決して媚びない、『不羈の民』の典型。

「いやあ、俺としちゃ、ひょっとして松伯が返り咲いてくださるかも、なんて思った訳で・・・。」
王にさえ膝を折らないと言われる麦州の民が、現在松伯と呼ばれている人物には誰もが崇敬の気持ちを抱く。
それは、親から子へ、子から孫へと語り継がれる、伝統のようなものだった。
麦州が赤王朝の優等生になりえたのは決して偶然ではない。
かつて、景王赤子の長い治世の大半にわたり、この麦州の民を赤子が目指した「『不羈の民』の生きる国」の理想に近づけるべく努力し、ここを慶東国中最も豊かで賑わう州となし、そしてついには「王がいなくてもその繁栄を少しも損なわない州」と言われるまでに育てあげた、稀代の州侯がいた。

現在の松伯は、伝説の麦州侯だった。
そして麦州の民は誰ひとり、それを忘れてはいない。


「赤王朝の冢宰も、元は麦州侯だからね。悪い因縁ではないだろうよ。」
松塾の学生の言葉に、先ほどまで不満を漏らしていた男がしぶしぶ頷く。
「俺は実は、塾を休学して巧国まで出稼ぎに行ってたんだ。俺は麦州の出身じゃないし、王がいないってのはやっぱり不安だったから。でも松伯が冢宰になられたんなら安心と帰って来た。松伯の教えをじきじきに請う機会が減るのは残念だけどもね。」
学生の言葉にも、自然な信頼と尊敬の念がにじみでていた。
「へえ、巧ってことは学生さん、半獣かい。」
「ああ。」
半獣が最も働きやすく暮らしやすい国が巧だというのは、どこへ行っても常識だ。
「巧は本当に半獣には天国で暮らしやすかったけど、やっぱり松塾が懐かしくなったよ。」
「学生さん。」
ふいに、旅人の少女が問い掛けた。
「松塾を見に行きたいのだけど、案内を頼んでもいいだろうか。」
その言葉に、学生は一瞬だけ明るい顔をしたが、じきに少しだけ表情を曇らせた。
「ああ・・・、いつもならば全く問題ないのだが。」
「今は夏の休暇で松伯がお帰りなんだろう・・・?」
客の一人が確かめるように言う。
あの赤子が蓬莱から持ち込んだ風習である、夏の長い休みは、金波宮のみならず市井にもある程度浸透していた。
「ああ・・・。」
学生が何やら複雑な表情を見せる。
「松伯が、昨日からどうにもご機嫌が悪くてね・・・。」
「へえ。」
「またどうして。」
客たちの騒めきに、店の給仕女が再び加わった。
「あら、主上にお会いできないからよ。」
「いや、一昨日まではなんの問題もなかったのだけれど。」
学生が困ったように言う。
「昨日から、いきなり苛々と落ち着かないご様子で・・・。」

では。
青鳥は昨日もう着いたんだな。
思いは言葉に出さず、少女は小さく笑った。

そんな少女を、学生がちらと見た。
その視線が、まず彼女の晴れた日の澄んだ空のような瞳に向かい、次に腰に佩いた立派な造りの刀に向かった。

「ご案内いたしましょう。」
やがて学生が、すっくと立ち上がった。