『柱』〜monsoon〜


露台から雲海を見つめて、少女はそっと溜め息をつく。
登極して、やっと一年が過ぎた。
一周年の式典を控え、金波宮全体が慌ただしい中、王である少女は物思いにふけっていた。

自分に王などが務まるとも思えなかった。
ずっと普通の娘だったし、それ以上の存在になろうなどと思ったことはなかったのに。
他国の王よりも、恵まれていたとは思う。
何より、民からの熱烈な歓迎と大きな期待が、励ましになった。
だが、それが大きな重荷にもなった。

女王であるということ。
慶東国で、女王として立つということ。
慶国の女王信仰は、根強い。
その昔、荒れ果てたこの国を建て直した、胎果の女王がいた。
彼女の長い治世と民にもたらした富と安寧が、強い女王待望論を生みだした。
女王が立てば慶は安泰だという、冷静になれば根拠のない信仰まで。

女王だから、きっとうまく治めてくれるに違いない。
その期待に、何度押しつぶされそうになったことだろう。

わたしには、出来ない。
わたしは、赤子じゃない。

叫びたくて、それが出来なくて。
今だって、自信がある訳ではない。
この下の世界は、少しは安らぎを取り戻しているのだろうかと、不安げに雲海を眺めている。

「主上、こんなところにおられましたか。」
聞きなれた声が聞こえ、少女は振り返った。
涼やかな微笑みを浮かべ、端正な面立ちの男がそこに立って彼女をじっと見つめていた。
少女は王の顔に戻り、男の号を仰々しく呼ぶ。
「松伯、式典の準備は滞りないか。」
若干の背伸びも混じった、必要以上に仰々しい少女の声音に、男はそっと笑んだ。
「全く滞りなく進んでおります。」
支えてくれる人がいて、それで何とか一年を乗り越えた。
ふと、口に出して問うてみる。
「松伯、わたしは・・・、良い王になれると思うか。」
他の者には聞けないが、この、見かけからは想像がつかないほどの永い年月を生きて来た男になら、多少子供じみた問いを発しても恥にはならないだろうと思って。
男は、面白そうに笑った。
「老成して、長く隠居の身を過ごしていた松伯を麦州から掘り出して、冢宰に据えるなどと豪胆な決断をされる主上です。大物の器であることは間違いありますまい。」
その笑い声に、からかわれたと思った少女が頬をふくらませる。
すると、男が急に真面目な顔になった。
「まさか、そんな事をお考えになってこんなところで憂い顔をされておられたのですか。」
「ずっとそこにいたのか。」
見られていたことが恥ずかしかったのか、少女が顔を赤くして剣呑な声を発する。
しかし男は余裕の笑みを浮かべていらえを返す。
「失礼ながら、憂えたお顔も大変にお美しいので、不覚にも見蕩れておりました。」
その言葉に、少女の頬がさらに上気して赤くなった。
「松塾では、色事まで教えるのか。」
それは、精一杯の嫌味のつもり。
だが、少女が想像もつかないほど永い時を生きている男には、何も堪えない。
にっこり笑って、男が近付いた。
「講義予定にはございませんが、お望みとあらば個別にご教授いたします。」
「松伯っ!」
不謹慎な言葉に、叱責の声を上げようとする。
だが、その長い腕に身体ごとくるまれてしまった。
逆らおうとする力を耳元で囁く声が奪い去る。
「主上は、赤子の時代を再臨させる必要などないのですよ。我らと共に、新しい慶国を造ってまいりましょう。その為に、この松伯をお招びになったのではないのですか。」
「うん・・・。」
「主上は、ここにいらっしゃれば良いのです。主上のおそばにいるだけで、私たちは少しでも良い慶国を造ろうという気持ちになれるものでございますから。」
まだうら若い女王を安心させる、常に落ち着いた声音。
「松伯。」
「はい。」
男の腕の中で、まだ少女の王が小さく問う。
「お前はどうして、赤子の死後も仙籍を離れなかったのだ。」
伝説の景女王は、多くの官に民に、慕われていたという。
彼女に殉じて寿命を天に還した者も多かったという。
仙籍を離れた官も多くいたという。
この男が、赤子の生前から彼女を敬愛していたことは知られている。
だが彼は赤子の死後も仙籍を離れずに長い時を生き抜き、やがて松塾の主宰となって多くの優秀な人材を育てていった。
「さあ。」
男は曖昧な溜め息をつく。
「やり残したことが、あるような気がしていたからでしょうか。」
「やり残したこと?それは何だ?」
「さあ、いまでもそれが、はっきりとはわからないのです。」
少しだけ苦しそうな、その声。
それが、遠い昔にいた女王への未練にも感じられて、現在の女王である少女はわずかに心を騒がせた。
それが偉大な女王に向けられた嫉妬であると自分で気付いて、おのれの驕慢さを恥じた。
すると、朱色に染まった目元にいきなり口付けられた。
「・・・っ!」
悲鳴を上げようとしたが、その唇もしっかりと塞がれてしまう。
「蘭桂っ!」
思わず、男の字を叫んだ。
細いのに力のある男の腕がいささか乱暴に肩にまわり、優雅な指が髪を弄る。
「けれど最近思うのです。私のやり残したことは、貴女のような伸びやかな若木のような方と共に、新しい国を造ることではなかったのかと。」
気恥ずかしくて、離れようと身をよじる女王に全くそれを許さずに腕の中に封じ込めたまま、有能な冢宰で知られる男は優しく少女の髪を撫でた。
「私が官職に就いてあの方のお傍で働きはじめた時、既に赤王朝の礎は出来上がっていましたから。」
「離して・・・。」
少女がか細く懇願するが、男は容易には言う通りにしない。
だがやがて女王の顔を上げさせると、蕩けるような笑みを浮かべて言った。
「もう一度、私の名前を呼んでいただけませんか。」
「・・・・嫌だ。」
拗ねた少女に苦笑しながら、男は愛しげに彼女の華奢な身体を抱きしめた。
うら若い女王はやっと力を抜き、そっと男の胸に頭を寄せた。


先刻までそこにいた女王の香が漂う執務室から露台に出て、男は小さく息を吐いた。
松塾の主宰となってから、また松伯と呼ばれるようになってから、随分と時が経った。
十二国を回っても、自分ほどの長命を生きている者を探すことは難しくなった。
それなのに、この一年の、この心のせわしさは何なのだろう。
久しく感じていなかった、この心の騒めきは。
やっと、この心の空白が埋まる。
新しい国を、一から作り上げていく過程に関われる。
その幸福感。
だが、同時に別の方向から心にさざ波を立てる風もある。
まだこの腕に残る、少女の温もり。
当人の自覚しないところで匂い立つ、甘酸っぱい香り。
ひと目で釘付けになった、魂の美しさを映した双眸。
そして、その口から自分の名が呼ばれる時に感じる、浮き立つようなときめき。
男は秘かに苦笑した。
何事にも動じないほどの時を生きてきたつもりだったのに、彼女の仕草一つに騒めくこの心はいったい何だ・・・・
私が、やり残したこととは・・・?

しかし、覚悟は出来ている。
この命が終わる時まで、彼女の傍らに在ろうと、もう決めたのだ。
そのために今まで生きて来たのだと、わかったから。
やり残したことは、これから燃え尽きるまでやるのだから。

官は、王を撰ぶことが出来る。
その一生を、捧げ尽くす王を。

どこからか、声が聞こえたような気がして男は露台から執務室を振り返った。
だが、誰かがいた訳ではなかった。
ただ、達王の御代から王の執務室を見守り続けて来たという太い柱が、目に入っただけだった。