『雨』〜mistral〜


あるいは、その時雨が降り出さなかったら、あっさり帰ったのかもしれない。
久しぶりに当たる雨がはじめは懐かしく、しかしやがて次第に暗くなる空に切なくなった。
そして外をまともに歩けぬほどに強くなった雨足に対して自分があまりに無力なことを認識すると、もう何も考えられなくなってしまった。
自分が何者であるのかの意識さえ、容赦なく降り続く雨に打たれて虚空に消えてしまいそうだった。

活気に溢れていた、尭天の街。
新王の登極を喜びながら、希望に満ちていた、人々の声、笑顔。
それは、とても嬉しくて、勇気づけられるものではあったのだけど。
ふと、抱いてしまった疑念が、心の中で大きくなって。
一人で歩きながら考えているうちに降って来た雨に打たれながら、疑念は心の中に居座る大きな黒い塊となってしまった。

「女王が立って、良かった。」
「慶国は、女王が繁栄をもたらしてくれる。」

ある時、人々の声を聞きながら、思ったこと。
・・・女王ならば、誰でも良かったのか。
いまだにただの小娘以上の何者でもない自分の代わりなど、実はどこにでもいるのではないか。

あるいは、その時雨が降り出さなかったなら。


顔を伏せたずぶぬれの少女に、気に止める者はほとんどいなかった。
通行人もほとんどいない街外れまで来て、彼女は視線を天に向けた。
この上に、いまの彼女の住む場所がある。
そこは、雨など降らないから、ずぶぬれになることなどない。
だが、自分が強くなった訳でも大きな存在となった訳でもない。
それは、自分がいちばんよくわかっている。
いま、降りしきる雨に為すすべもない小さなただの娘が畢竟、わたしの存在のすべて。

もし、二度と雲海の上に帰れなくなったとしたら。
何も為さずに、ここでのたれ死んでしまったとしたら。
自分がそんな風には死なない身になったことなど忘れ、景女王である少女はそんなことを考えていた。
別に、何も変わらないのではないか。
人々は、次に女王が立てば同じように喜び、金波宮の優秀な官たちは今と同じようにそつなく政務をこなしてゆく。
わたしが、そこにいたことなど、すぐに忘れて。

胸が、潰れそうだった。
わたしは、誰だ・・・?

「主上。」
呼びかける静かな声に、振り返った。
騎獣を背にそこに立っていたのはよく知った顔だったが、声音は今までに聞いたことがないものだった。
込められていたのは、静かな怒り。
街中を探し回ったのか、彼女と同じように濡れ鼠で。
「松伯。」
名に聞こえる慶国冢宰の号を呼び、女王は叱責の言葉を口にする。
あまりに、場違いな。
「護衛もつけずに、不用心ではないか。」
男は、そんな言葉を全く予想していなかったのか意外そうに目を見開いた。
「いまの貴女にだけは、言われたくない言葉ですね。」
男がそう言うと、女王が叫ぶように言った。
「おまえがいなければ、金波宮も慶東国も全く立ち行かないじゃないか。おまえの代わりは、どこにもいないんだ。わたしの代わりなど、いくらでもいるのと違って。」
男は一瞬、自分が何を言われたのか判らなかったかのように訝しげな瞬きをした。
だが刹那、何事かを理解した顔を見せると、つかつかと女王に歩み寄った。

バチン!

少女の頬が叩かれた。
音とともに、しぶきが宙に散った。
よろめいた女王を、男が抱き留めて。
その胸に、小柄な少女をしっかりと包み込んだ。
存在を確かめるようにぎゅっと抱き締めると、男は少女の顔を上げさせて、険しい声を出した。
「しっかりなされよ。どうされたのだ。」
いままでに聞いたこともない、強い口調。
「蘭桂。」
女王が、男の名を呼ぶ。
「景女王は、わたしでなくても良かったんじゃないか。女王であれば、わたしでなくても・・・。」
少女の言葉は、途中で男の口付けの中に消えた。
溜まってやがて溢れ出た思いを、たった一つの場所に注ぎ込むような、深い深い口付け。
それは、熱くて、ただ熱くて、少女を焦がした。
「蘭桂…、あの、熱い。」
か細い囁きに、男が答える。
「当たり前です。」
雨は変わらず二人を打ちつけていたが、水の冷たさが全く感じられないほど、その空間だけが、ただ熱かった。
「貴女は…、おわかりでない!」
叫ぶように言うと、男は華奢な少女が折れてしまうほどに強く抱き締め、瞼の上に、頬に、唇に、熱い口付けを落とした。
「貴女と出会えた私が、どれほどに幸せなのかを。」
首筋に唇を当てると、少女がびくりと肩を震わせた。
「松塾であの日、貴女の瞳と向き合った時の私の歓喜を、貴女はおわかりでない!」
「ごめん・・・、蘭桂。」
抱き締める腕も、寄せられる唇も、燃えるように熱くて。
心の中まで、溶けてしまいそうで。
「どれほど、愛を埋め込んだら、貴女はわかっていただけるのです!」
雨に濡れた男の髪から、水が滴り落ちる。
「これだけの時を、生き永らえて来てよかったと、本気で思ったのです。」
男の声が、わずかに掠れていた。
その取り乱した響きが、嬉しくて、そして重かった。
小さく、問う。
「わたしは、ここにいていいのか。」
この、腕の中に。
男は少女の身体を放し、両手で肩を掴んだ。
「貴女のいない金波宮に私のいる意味などないし、貴女のいない慶東国など、私には何の意味もない。」
少女の頬を伝う温かい涙を、雨が洗い流さないうちに指で掬い取る。
「こんなに永い時を生きてきて、私ははじめて、自分の意志で呼吸をしている気持ちになったのです。」
貴女と、ずっと歩いていく。
他でもない自分のために決めた、それは確かな覚悟。
「私と、金波宮に戻っていただけますね。」
「うん・・・。」
男はもう一度腕を伸ばすと、今度は優しく少女を抱き締めた。
そっと、慈しむように。
愛おしむように。

雨が、いつの間にか小降りになっていた。