強きを願ったのは確かだが。
貴方を、希んだ訳ではなかった。


『破壊』




「正頼見て!雲海が白く光ってる。」
「白陽ですね。」
無邪気に興奮しながら自分の手を引く幼い麒麟に、正頼は小さく微笑みながら答えた。
「正頼はなんでも知っているんだねえ。」
「傅相とは教育係ですから、物知りでないとなりません。」
「うん、ぼく、たくさん勉強するよ。そして早く、驍宗さまのお役に立てるようになりたい。」
瞳を輝かせる麒麟から、正頼は思わず顔を背けた。

見て、いられなかった。

悲しみか。
絶望か。
あるいは、憎悪か。

強き王と、強き麒麟を願った。
戴極国の環境は、厳しい。
人が生きるのに、他国の倍以上の能力と努力が要る。
いまこの国に必要なのは、強い王と、台輔なのだ。
天は正頼に、戴の民に、それを与えた。
そうなのかもしれなかった。

しかし、正頼はあの時の絶望を忘れられない。

それまでの希望が大きかっただけに、絶望は計り知れなかった。
大きな喜びだった。
泰麒は、驍宗を王に選んだと聞いた時。
泰麒は、稀なる黒麒麟だと聞いた時。
泰麒は、なんと饕餮を使令に下したのだと聞いた時。
舞い上がるほどに、喜んだ。
戴は、救われる。
そう、思った。

泰麒が胎果であるという事実は、知ってはいたがその時は気に留めなかった。
強い麒麟が生まれてくれたという喜びのほうが大きかったし、王と麒麟がどちらも胎果だという雁は、十二国で一、二を争う豊かで長命な国だ。
胎果であるということが、懸念の材料になるなど思いもしなかったから。

だから、あの瞬間は驚愕と失望で、息が止まりそうになった。

「うわあ、空の上に、海がある・・・。」

心底驚いたように目を見開く麒麟を、正頼ははじめ、穴があくほど見つめるしかなかった。
その姿はあまりにも幼くて。
頼りなくて。
しかも・・・
この台輔は、こちらの世界のことを、何も知らないのだ。
絶望が、胸を駆け抜けた。
自分が王とともに治める国のことだけではない、こちらの世界を、何も知らないのだ。
下賎の子供でさえ、物心つくころから知っていること、心得ていること、それらを何も、この台輔は知らないのだ。

泰麒は幼かった。
幼いがゆえに、感じたことを素直に表現した。
それがまた、正頼を苛んでいった。
たとえば。
こちらの世界の人間ならば、空気を吸うように身についている身分の貴賎。
貴人は賎人に触れてはならないし、賎人は貴人に相応の礼を取らねばならない。
この世界の秩序を保つための、最も基本的な理(ことわり)であるそれを、泰麒はなかなか理解出来なかった。
下賎の民に、気安く声をかける。
台輔として伏礼を受けると、友達に嫌われた幼い少年のように困惑した表情を浮かべる。
相手と自分の間に当然のごとく横たわるその距離を、受け入れられないかのようだった。
当たり前のことが、わからない麒麟。
それが、泰麒だった。

正頼の中で、恐ろしい想像が沸き起こった。
まだ小さなこの麒麟は、周囲の大人に従っている。
彼が生まれ育った蓬莱では、そうするものだったからだと本人は言う。
だが、本来台輔は、王を除いてどの臣よりも格上だ。
気に入らなければ、従わなくとも良いのだ。
それをいつか彼が認識したとき。
彼が自分の意志で行動し始めたら、誰も止められまい。
饕餮を下すほどに強大な黒麒に、誰が逆らえるというのか。

戴は、終わりだ。
そう思った。
身分の貴賎という、最も基本的な理(ことわり)すら、彼は理解出来ないのだ。
あらゆる理(ことわり)を、破壊される。
そう思った。

そして、不安を抱いたのは正頼だけではなかった。
あるいは、泰麒に接したすべての者が、そう思ったのかもしれなかった。
驍宗を除いて。

・・・貴方は、この国に必要な台輔ではない。

あるいは、あまり聡明でもない、弱い麒麟であったのなら。
脅威を抱かれずに済んだかもしれぬが。

「主上のお役に立てるように、はやく大人になりたい。」

寸分の濁りもないその瞳とその声音が正頼に想像させたものは、あらゆる秩序を失った、破壊された戴国でしかなかった。

台輔。
貴方は、戻って来てはいけなかった。
この国は、貴方のような方を必要としていない。
私たちが欲しているのは、「まっとうな」麒麟であって。
貴方ではない。

だから。

お帰りなさい。
貴方の、生まれた国へ。
麒麟であったことなど忘れ。
角を持つ身であったことなど忘れ。
故国へ戻られるが良い。

貴方自身と、私たちの、幸福のために。






こうじゃないことを願うばかりです。でも書くのは楽しかった。(笑)
ところで、汕子と傲濫が蓬莱までくっついていかなかったら、「高里の祟り」は起きなかった訳で、戴はともかく、高里くんは平和に暮らしていたのかもしれませんね。