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『倦怠』
生きることに飽いた男と
生きることに苛立つ女が
同族嫌悪とも言える憎しみを抱きながら
互いを貪りあっていたのかもしれない。
「姉は、愚かなのよ。」
女は、男の顔を見ずに吐き捨てるようにそう言った。
「静かに機を織れることと、何も考えずに刺繍を刺せることが幸福の全て。自分の意見というものはないの。小さな頃からそうなの。あの人は、小さい頃は両親の気に入った色の服を着ていた。その後は好きになった男の趣味に合わせて着るものがいつも変わった。あの人に王など務まると思って。」
女は舒栄という。今上の景王の、実妹である。
男は榻に座って画を眺めながら、ややかったるげに答えた。
「けれど台輔がお選びになった。」
「だからどうして!」
苛立つ女を男は宥めようともせず、突き刺すように言った。
「麒麟の選択は民の選択です。そういう主を、この国の民が望んだまで。」
「自分の意見を持たない、箱庭の幸福しか理解しない王を?」
「それが民の意志だったのです。」
民は、突出した才能も卓越した個性も王に求めなかった。
「普通でないこと」をあまり好まないこの国の民は
王の資質にさえ、「普通」を求めた。
そういうことなのだろうと、思う。
麦州侯である男は、小さく溜め息をついた。
この国に暮らすということはどうして、いつもこうも物足りないのだろうと思い初めたのがいつ頃だったのか、もはや記憶にない。
自分の能力を民のために生かすべく任官したが、金波宮の中で官吏として働くことにはじきに疲れた。
馴染めなかった訳ではない。
だが、本当は反吐が出そうなほどに嫌悪しているはずの閉鎖的な空間で、万事そつなくこなしている自分が嫌になった。
州侯に冊封されたのをいいことに、必要な時以外は麦州に引っ込むようになった。
新しい王が立つ度に期待を抱いては失望し、やがて諦念が心を支配するようになった。
・・・・いくら民のために力を尽くしたいと思っても。
民は自分を受け入れはしないのだろうと。
おまえのような変わり者は、要らないと。
新しい王を見る度にそう思った。
民意の具現である麒麟が選ぶ王は、いつも彼とは肌合いの悪そうな、「普通の」人物だったから。
「あなた、面白い眼(め)をしてるわね。」
女が近付いてきたのは、そんな時だった。
王の妹でありながら、性格は全く正反対だった。
長いものに巻かれる迎合を好まない資質には共通点を見出した。
だが舒栄はその他に、男が既に諦めとともに捨ててしまった、生きることへの苛立ちをまだ持っていて。
その炎に惹かれた。
惹かれながらも、世を拗ねたような女の態度に己の分身を見出し、それゆえの嫌悪も感じた。
「こんな国、滅んでしまえば良いんだわ。」
ずっと煮え切らなかった自分にはどうしても口に出来ない台詞を、いとも簡単に口にする女に対する、素直な羨望と、浅ましい嫉妬と、幼い無鉄砲さに対する憧憬と軽侮と。
得体の知れない苛立ちを抱えた女が自分に何を求めたのかは知らない。
つまるところ、燃え尽きることがないまま燻り続ける男と女が、愛情が介在するのかしないのかもわからない情事を繰り返していたと、そういうことだったのだろう。
「意気地なし。」
決まって臥牀の中で、女は男を罵った。
ひそひそと聞こえてくる陰口の多さと反比例し、面と向かって悪し様に言ってくれる人物が減り続けていることに飽きていた男は、いつも心地よく女の罵倒を聞いていた。
能無しの王など廃してしまえば良いと、女はよく言っていた。
男になら、その力だってあるだろうと。
動機も。
だが、王になりたかったら昇山するだろうし、自分が王に相応しければ麒麟が選びに来るだろうと答える男に、女は不満だった。
麒麟は民意の具現だから。
民が愚かなままなら、麒麟はずっと愚かな選択しかしないのよ。
女が情熱的な口付けをよこす時、それは決まって叛逆を唆すような言葉を囁く時だった。
男が聞く耳を持たないと、怯懦な男だと非難した。
それは事実だと思っていたから、反駁する気も起こらず。
結局、諍いにすらならないのだった。
※
「何故私に与しない?」
冷徹とも言えるその問いに、答えた。
「貴女は、王ではない。」
民は、受け入れないだろう。
「わたしたち」のような主を、この国は認めないだろうから。
ことここに至ってもその考えを曲げられない自分に、男は自分への失笑を禁じえなかった。
そう、道を失った王は禅譲し、新王を名乗った舒栄の下に、自分以外のすべての州侯は下っているというのに。
今、いつか女と語ったものとは違う形で、自分は既に叛逆者であるのに。
女が、正当な王ではないという確信はあった。
前王と同氏の者は王になれないという天の理ゆえではない。
男は、天の理というものを、実はそれほど重んじてはいなかった。
ただ、自分と同類のものを持つこの女が、この国に王として選ばれることがないだろうという確信だけがあった。
女が起こした天への叛逆に、加担しても良いと思った。
女を王だと思ったからではなく、そうでなかったがゆえに、この大それた企てに乗っても良いと思った。
しかし結局。
その決断も出来なかった。
天が、民が選ぶ王では、この国の民に安寧を与えられないと気付いて。
それならば天意を無視した王が立っても良いではないかと罰当たりなことを考え。
しかし偽王として立ったこの女を見た時に、彼女の下に集った人々の、事なかれ主義の顔触れを眺めた時に、国がさらに荒れるさまを想像してしまった。
野望を実現するためには、善人であり続けることは出来ないと理解しているのに。
結局善人にも悪人にもなれないまま、鬱々と引っ込んでいるのが自分だった。
「意気地なし。」
望んでいた言葉を女が発し、男は笑みがこぼれそうになるのをなんとか押し止めた。
麦州以外のすべての州が舒栄の傘下に入ったのに、一人で抵抗を続けているのは勇気のある行動だろう。
だが、男は自分でそう思ったことはなかった。
「良いことを教えてあげる。」
女が、ふいに言った。
冷たい口調で、どこか意地の悪い響きがあった。
「景麒が、新しい王を選んだそうよ。」
それは国の根幹を揺るがす重大事であるのに。
男はそれを、どこか乾いた気持ちで聞いた。
「新王は女王で、胎果だそうよ。」
舒栄はまるで他人事のように言った。
いや、ほんとうに他人事だと思っているのだろう。
彼女の姉のような、愚かな王を選んだ愚かな麒麟を、彼女は最も軽蔑していた。
「わたしが斃れたら、あなたは何喰わぬ顔で新しい王に跪くのかしら。」
意地の悪い笑みを浮かべ、女が言った。
「心の中に諦めと侮りをしまいこんで愚かな王にぬかずく日々を、続けるの。」
男は答えなかった。
不思議な感覚だった。
愛人であった女に、別の女のことを話すことを無粋に感じるような、いささかこの場にそぐわない俗っぽい感覚だった。
新しい王など、まだ見たこともないのに。
見ることがあるかどうかも、わからないのに。
「臆病者!」
女が吐き捨てるように言った。
侮蔑を顔に浮かべた女を、美しいと思った。
顎を上げ、胸を反らした女は、冷静に見れば滑稽な姿だった。
天を相手に勝ち目のない戦いを挑み、懸命に虚勢を張っている姿は痛々しくもあった。
だが、男は愛しいと思った。
女が小さく笑って言った。
「わたしは、あなたの闇を知っているわ。」
そしてそれが、最期の別れとなった。
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