『まあるいお月さま』(禁じ手〜廉王世卓 死別編
「さて、もうそろそろお仕舞いにしましょうか?」
男は剪定し終わったばかりの枝を、細い腕で一生懸命運んでいる子供に声を掛けた。子供とはいえ、れっきとした麒麟───他国の宰補な訳で、このような野良仕事をさせてもいいのかなあ、と思いつつ、泰麒がとても楽しそうなので、手伝って貰っている。
「もう少し。これだけ運んだら、そうします。」
「そうですか、じゃあ、お願いしようかな。俺は先に手を洗いますね。」
「廉王さま」
しゃがんで手桶で手を洗っていると、後ろから呼びかけられて廉王は振り向いた。 彼とてれっきとした一国の王であり、本来、野良仕事をする立場ではないのだが、王とは天からのお役目で、自分の本業は農夫だと思っている。
振り返った廉王世卓の目に、子供はあどけなさの残る丸い頬を上気させ、笑顔で呼びかけた。
「ほら、まあるいお月さまですよ。」
まあるいお月さまを後ろに。
それはもう昔のこと。
「まあるい・・・」
「なんだ?」
吐息混じりにもれる言葉を聞きつけて、世卓ははっと、妻の痩せた手を取った。
「まあるいお月さま・・・あたし達の・・・たまご、みた・・・」
空にはいつからか丸い月がのぼっていた。粗末だが清潔な牀臥に横たわった妻には、小さな窓からそれが見えたのか。
「あんた・・・まあるいたまご・・・」
「うん、うん、わかってる、だからしゃべらない方が・・・」
「あたしたちの卵果。あたしたちの・・・おねがい・・・」
「───わかった。すぐ戻る。まってろ、な。」
「ちょっと、世卓さん!おまちよ。」
世卓は薄暗くなりつつある中を懸命に里祠へと走った。いそがなくては、いそがなくては。いそがなくては・・・間に合わない。
里祠には里木がある。里木には卵果がある。おれと、あいつの、まあるいたまご。
「まあるいたまご。どんどん大きくなって・・・」
「こんだけまあるいと、生まれた子もさぞまあるいんだろうねえ。」
「早くあたしたちのところにおいで。まあるいたまご。」
あいつはいつも卵果に話し掛けていた、それが母親のお役目だと言っていた───元気な頃は。
二人で何度も通った里祠への道。いつも心躍らせて歩いた道。十月を目の前にして、なぜ俺は独りで走っているのだろう。
里祠に入ると、天帝、西王母への礼拝も忘れ、白い木にまろび寄る。
二人で結んだ帯で飾られた枝に目指す黄色い実があった。
───二人で来ようって約束だったのにな・・・
世卓は肩で息をしながら、その大きく逞しい腕を伸ばす。
「───すまない。ちょっと早いかもしれないけど、来てくれ。俺たちのとこに。な?母さんがうちで待ってるぞ。」
世卓はそっと実をもごうとした。が、その実はどういう不思議か、まるで枝から離れようとはせず。
「なぜ、なぜもげないんだ!」
「頼むから、もげてくれ!」
何度ねじっても、それこそ枝が折れようほどに引っ張っても。
「・・・今もげないと・・・今すぐ会わないと・・・お前は母さんに・・・」
とうとう世卓はがっくりと逞しい肩を落とし、卵果をもぐ為のその手で顔を覆ってしまった。
月は何も知らぬげにぽかりと浮かんでいる。
「ほら、あんた。まあるいお月さまだよ。あたし達のたまごみたい。」
ばか、お前、そりゃ、卵果のほうがお月様に似てるんだよ、そんなんで母親のお役目が果たせるのかなあ、心配だ。
言い合いながらのいつかの帰り道を思い出し、恨めしそうに月を見遣り、また肩を落とした。世卓はとぼとぼと帰路についたが、家の近くまできたとき、留守を頼んだ隣人の叫ぶ声を聞いて体中が強張った。
「世卓さん!奥さんが、奥さんが・・・」
世卓が入り口で手招きしている隣人を突き飛ばすようにして家の中に入ると、家の中には重苦しい静寂がたちこめ、彼は、間に合わなかったことを悟った。
病人は最後は苦しくはなかったと見え、元気だった頃の陽気さを思わせるような表情のまま眠っていた。世卓は牀臥に横たわった妻の、まだ少し暖かい手を取った。
「どうして・・・天は俺たちに父親と母親というお役目を下さったんだぞ。どうして・・・どうして・・・」
その手が冷たくなって行くのを朧に感じながら。
次の日、世卓はまた夕暮れに里祠へと向かった。妻の葬儀は───といっても彼の土地の片隅に埋葬するだけのことだが、それは明日行われることになっていた。
今日は卵果がもげるかもしれない、そうすれば別れる前に、妻に子供を見せてやれるかもしれない。妻に、自分一人でも父親というお役目はちゃんと務めるからと安心させてやりたい。
世卓が昨日も訪れた里木の元に行って見ると、彼らの───いや、彼の卵果があるべき枝には何もなく、妻と二人で結んだ刺繍の帯だけが、だらりと垂れ下がり。
黄色い卵果は地に落ちて、その丸い形を無残にも半分にしていた。
世卓は膝から力が抜け、座り込んでしまった。
「まあるいたまご。あたしたちのたからもの。」
この十月というもの毎日のように彼の妻が呟いていた言葉。
世卓は無様に四つん這いになってのろのろと、その砕け散った卵に近づいた。
まあるいまま妻と二人でもぐ筈だった卵果のいびつな大きな破片をそっと取り上げ、中を覗いたが。
中は空だった。何かが入っていた痕跡すらなく。
「なんで・・・なんで・・・」
世卓はふらりと起き上がると、およそこの男を知るものが驚くような形相で、天帝と西王母を祀ってある廟へと向かった。扉はもう閉ざされていたが、その扉を世卓は叩いた。かたく、堅く握った拳で、何度も何度も。
「お願いです。俺たちの子供を返してください。あいつに、妻に一目会わせてやりたいんです。おれ一人でも立派に親のお役目を果たします。だから子供を返してください。お願いします。どうか、どうか、お願いします・・・」
何度扉を叩いても、誰かが答えてくれることも、誰かが聞いてくれている様子もなく、ただ彼の手に血が滲んでゆくだけだった。
とうとう世卓は傷ついた手をだらりと降ろし、彼の卵果の元へと戻った。
そして粗末な袍を脱ぐと、卵果を───いや壊れてしまった殻を包み込み、そっと腕に抱いて歩き出した。
世卓はすっかり暮れてしまった夜空を見上げた。空には昨日と同じようにぽかりと満月が浮かび上がり。
「まあるいお月さまだよ。あたし達のたまごみたい。」
また、妻の言葉を思い出し。その記憶に、腕の中のあまりに軽い存在に、涙がこぼれそうになった。だから、上を向き、月を眺めた。
「おれには父親のお役目は重過ぎると天は思われたんだろうか。」
「俺と子供が畑仕事をして、お前がご飯だよって呼んでくれて、三人で食べて。笑って・・・」
きっと自分たちの家は笑い声の絶えない家になっただろうに。
「お前のとこにこの子がいるのかなあ。」
魂魄など信じてはいなかったが、今はそう思うことが救いのように思われた。
まあるい月のなかに妻とまだ見ぬ───そしてもう会うことのないわが子が住んでいる。
「どうかしましたか?廉王様」
月と自分を振り返ったまま、記憶の淵に沈みこんでしまった男を小さな麒麟は心配そうに見ていた。
「・・・いえ、なんでもないです。」
「そうですか?」
さらに首をかしげた泰麒に世卓は───廉王は微笑んで見せ、一緒に手を洗った。一介の農夫であった自分が大きなお役目を受けてから、もう何十年が過ぎただろう。それは、妻も果たすべき役目も失って独り途方に暮れている彼を、天が憐れんで下さった新しいお役目だと思えたものだった。そしてそれを運んできた彼の麒麟。
「主上・・・まあ、またお召し物で手をお拭きになって。ちゃんと布をお使い下さいな。」
廉麟が近づいてきて、笑いながらとがめた。
これが彼の麒麟。今のお役目を運んできてくれた。そして、それからずっと彼のそばに居てくれた。
廉麟はいい匂いのする真っ白な布を主に手渡した。そして、泰麒のほうに向き直った。
「おなかがおすきになったでしょう?夕餉までまだ少しありますから、お菓子でもお召し上がりになってくださいませ。」
「わー。これも廉台補がお作りになったんですか?すごいなあ。僕も驍宗さまに作って差し上げたいなあ。ねえ、僕に作れるでしょうか?」
「作れましょうが・・・白圭宮の方々がびっくりなさるでしょうね。」
ふふ、と彼の麒麟が笑い。
「あちらの大僕の方もお呼びくださいませ。」
「はーい。」
と、かけてゆく子供。
夢に見たのはこんな暮らしだったろうか?それは今の彼にとっては、あまりにも遠い昔のこと。
けれど、ふいに涙がこぼれそうになって廉王は月を見上げた。
空には丸い月がぽかりと浮かんでいた。
世卓は微笑んで泰麒を見ている廉麟に、聞こえないように呟いた。
「ありがとう。俺にお役目をくれて。そばに居てくれて・・・俺、頑張るからね。」
月はまあるく微笑んでいるようだった。
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