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滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
数十戸ほどの農家が細々と暮らしている集落だった。
僻地と言っても良く、豊かに作物が実る土地でもなかったが、農民たちの暮らしは安定していた。
安定した国とは、そういうものだ。
国の末端に至っても、民は飢えを知らない。
細々とした暮らし向きに見えたが、皆穏やかな顔をしている。
だが穏やかな顔ながら、彼らは男に対して、やや怪訝な表情を見せた。
旅人というものが、彼らには珍しかったのである。
「こんななんにもない土地に、なんでお出でなすったかね。」
「私は雁国の歴史に関心がある者。ここにかつて元州の州城があったと聞くので。」
男の言葉に村人たちは納得したような、だがいささか曇った顔をする。
「ずいぶんと昔のことに関わりなさる方だねえ。」
「わしらも、じいさんのそのまたじいさんから聞いたような話しか、知らなんだ。」
「最初にして最大の反逆者が、ここにおったとか。」
更夜。
美しいだろう。
元州は、美しいだろう。
うまくできた自作の玩具を自慢する子供のような、誇らしげな声の持ち主は。
とうに、その存在を忘れられて久しい。
まれに、聞こえて来る声もあるが。
それは、名声ではなく悪評。
その名も高い現王が登極当時、それを認めようとせずに、叛乱を起こしたという。
五百年という年月を経た今、名君と名高い現王を否定することなど民草には想像もつかない。
彼らは、知らないから。
まだ海のものとも山のものとも知れなかった、現王の登極当時を。
それが想像がつかないだけに、彼に叛逆を企てたという人物への恐怖は、根拠もなく増大する。
天をも恐れぬ不届き者よと。
更夜。
私は。
民を幸せにしてやりたいのだ。
夢見るようだったその言葉を、更夜は鮮明に思い出すことが出来る。
民が笑い、満足することが、彼の夢であり、野望だったのだ。
彼が、それを実現出来る器ではなかったとしても、その夢に嘘はなかった。
斡由。
貴方は。
僕を必要だと言ってくれた、最初で最後の人だった。
貴方が、この国と、民にとってどんな存在であっても。
僕が、人の役に立てたのは、貴方のために働いた時だけだった。
この世界に、生きていてもいいのだと教えてくれたのは。
貴方の他にいない。
あたしはあんたの身を飾る宝石じゃないわ。あたしは人間なのよ。
女を宝飾品だと思っている不実な男に、女が投げつける言葉がある。
俺は父さんの駒じゃない。俺は一人の人間なんだ。
家名を上げるために意に染まぬ職に就けと望む親に、子が投げつける言葉がある。
僕は、貴方の飾りで良かった。
僕は、貴方の駒で良かった。
ただ、必要とされるのであれば。
斡由。
僕は、見返りなんか、要らなかったのに。
ただ、貴方が僕を必要だと言ってくれるならば。
それだけで、良かった。
僕は、貴方を忘れない。
この命を、天に返す時まで。
果たして、いずれが最も早いだろう。
現王朝が斃れるのと。
僕が、この生に飽きて天命を返すのと。
貴方の、悪評が完全に消えるのと。
更夜は、往時の面影も何もなくなった州城の跡地に、ただ一人で立っていた。
自分は一人ぼっちではないのだと思うことが出来た、夢のように短い日々を、思い出させる何物も、そこにはなかった。
あの人が生きていたその痕跡は、既に跡形もない。
ただ、僅かばかりの声だけが、聞こえるのみ。
天をも恐れぬ不届き者が、かつてここにいたのだと。
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