しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
「主上。」
静かに声をかけて、僕は巻物を手に執務室に入った。
ただのお使いでしかない役目だが、駆け出しの官がこの部屋に入れる、数少ない機会だ。
部屋の主は、僕を見てふわりと微笑んでくれた。
「夕暉じゃないか。」
・・・どうだろう。
薄紅に色づいた唇から、自分の名前が発せられるだけで、これほどに胸が高鳴るとは。
まともに言葉が発せられないほどに、身体中を熱が駆け巡ってしまう、この体たらく。
「初めて逢った頃みたいに、陽子って呼んでくれないのか、夕暉?」
そして。
懸命に、鼓動を速める心臓を宥めようとしているのに。
この人は、いつもそれを逆撫ですることしか言わない。
「無理です。世の中にはけじめというものがあります。」
「わたしは、人と人との間に垣根を築くのは嫌いなんだけどなあ・・・。」
無邪気に、ぼやいてみせるだけ。
「冢宰に、睨まれてしまいます。」
最も説得力のありそうな口実を仕方なく出してみる。
いや、口実ではない。これは事実だ。
「浩瀚が?彼はそんなに狭量な男だったか・・・?」
得心がいかぬ風で首をかしげる貴女はご存知ない。
もちろん冢宰は狭量な人物ではない。
だが、そんな彼が世界一狭量な男になってしまうことが、時にはあることを。
その、例外をもたらず存在が何なのかを。
「あ、これ飲んでみる?」
いきなり、器を差し出された。
慣れない不思議な香りを放つ、焦げ茶色の液体がそこに入っていた。
「珈琲という、蓬莱の飲み物だ。延台輔からいただいたのだけど、最近浩瀚が淹れ方を覚えた。」
「冢宰が主上のためにお淹れになったのですか。」
「うん。わたしが淹れるより、余程美味しい。どうだ、試してみないか。」
差し出される細い手首の白さが眩しくて、思わず瞬きをしてしまう。
「いいえ、今日は遠慮しておきます。」
辛うじて口に出せた、本心とは正反対の応え。
・・・僕はまだ、命が惜しい。
「そうか・・・、たしかに、こちらの人には慣れない香りだもんな。」
少しだけ残念そうに、女王は言う。
「それでは、失礼いたします。」
本能は後ろ髪を引っ張るけれど、ここは早々に退出したほうが良い。
このままこの人の前にいては、ますます訳の判らない言動になってしまう。
そんな自分の未熟さが、とても歯がゆいのだけど。
きっと自分はいま、顔を不自然なほどに紅潮させているのだろう。
このいささか他人の心の機微に疎い女王が、気付かないだけで。
前回この執務室を出た時は、他の官たちにさんざんからかわれたのだから。
顔は真っ赤、歩き方はぎこちなく、問い掛けられても生返事しか出来ない。
・・・おかしいぞ、おまえ。
いったい何人に笑われたことだろう。
誰にも言うつもりなどないのに、これでは言いふらしているも同然だ。
自分の青さに、笑うしかない。
そんな自分たちに時に何も言わず鋭い一瞥を送ってよこす冢宰に比べ、修業の足りなさを笑い飛ばすしかない。
あーあ
諦めのこもった溜め息をついた時、女王がにっこり微笑んだ。
「頑張れってくれよ、夕暉。期待しているんだから。」
「はい。」
「いつか、浩瀚と張り合えるくらいになってくれよな。」
「・・・・・はい。」
彼女が髪の色と同じ、緋色の空気を纏っている、と思ったのは、夕焼けのせいかもしれなかった
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