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つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる
「新年の賀にお召しになるご衣装が、調いましたとのこと。」
州宰の言葉に、男は一瞬きょとんとした様子で、振り返った。
「ああ、もうそんな季節か。」
だが主の男は得心したように頷いて、苦笑した。
「ただの儀式のためにたいそうな衣装を作らなくとも良いのだぞ。」
「そうおっしゃいますな。金波宮での儀式に各州侯が揃われる際、民は自分の主が最も立派に見えることに誇りを持つものでございますゆえ。」
穏やかに州宰がたしなめる。
「そういうものか。」
呟きながら、州侯である男が、何やら考え込むような目をして窓から外を見た。
見かけは、州侯のほうが州宰よりも若い。
大学の学生の頃から優秀さで知られ、成人に達するとすぐに仙籍に入った。
そして異例の若さで麦州侯に封じられた。
もう、遠い記憶になりつつある。
・・・州侯になれば、金波宮から離れられると安堵したこと。
・・・けれど、いざその日が来たら胸に沸き起こった寂しさに挫けそうになったこと。
「失礼ながら。」
州宰が口を開いた。
「侯は、あまり金波宮に足を運ばれることをお好きではないようですね。」
「何を言う。そんなことがあるものか。」
「州内を視察される時は、すぐにお支度もされますしご自分であれこれとご指示されるのに、金波宮に行かれる時は、私どもが言いだすまでお支度もされない。」
「・・・そうだったかな。」
すっとぼけながら、傍目にも解るものだったかと、男は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「麦州をとにかく立派な州にすると主上にお約束申し上げた。だから、州内のことにはつい張り切ってしまうのだ。」
当たり障りのない言い訳を口にしてみたが、信じたのか信じてないのか、州宰は小さく笑いながら反論した。
「それでは、胸を張って主上にご報告なされませ。いまや麦州は慶東国で一、二を争う豊かな州でございます。民も、自信を取り戻しております。」
そう言う州宰の言葉も自信満々だった。
「そうだな。」
それはそれで、嬉しい反応だった。
州宰が出ていった後、男はしばらく州侯の執務室の窓から外を見ていた。
・・・尭天の方角は、あちらか。
あのひとが、いる場所・・・・
はじめずっと側にいたいと願い。
やがて側に在ることが苦痛となり。
離れられたことにはじめは喜び。
だがそこに寂しさも入り交じり。
「陽子。」
小さく、名を呟く。
人前で、その名を呼ぶことが許されなくなって、否、自分にそれを許さなくなって、どれほどの時が経っただろう。
「本当は、変わらず『陽子』って呼んで欲しいんだけどな。」
あのひとは、笑ってそう言ったのだけど。
自分にそれを許すことが出来なかった。
呼んでしまえば、自分の中にある何かが、崩れるような気がした。
箍のようなものが、外れてしまうような気がした。
それは、無邪気に呼んでいた頃にはなかった、心に焼け付くような想いだった。
「ずっと桂桂なんて呼んでて、悪かったな。」
出立の日、彼女は寂しそうにそう言った。
住み慣れた金波宮を離れた日、私たちは、別れを惜しむことにあまり時間を使わなかった。
景王は、寂しそうだった。
「桂桂が無邪気に慕ってくれるのが嬉しくて、ずっと子供でいて欲しいと思っていたのかもしれない。わたしの身勝手だ。」
「僕も、出来ることならずっと子供でいたかった。」
つとめて冗談ぽく、答えた。
いっそ子供のまま、ずっと彼女に纏わりついていられたらと、思ったことはたしかにある。
「でもそれは、この国のためには勿体ないことだな。」
自嘲気味に、彼女はそう言った。
子供の自立を促すのに、一抹の寂しさを捨てきれない母親のようだった。
「麦州を、慶国一豊かな州にしてみせます。」
しばらくそれに専念しようと、誓った。
貴女のために。
貴女への想いを、昇華させるために。
「陽子。」
けれど、それは容易に折合いがつけられはしなかった。
州侯として金波宮に参上することが、苦痛ですらあった。
見るたびに艶やかに輝く、あのひとを見ることが。
手を伸ばしても手に入れることの叶わない、至上の華を。
貴女を忘れたくて。
けれどほんとうは貴女のために。
州の施政に打ち込んだ。
皮肉なことに、そちらは面白いほどに努力が報われた。
いまや、麦州は慶東国一の州で。
不羈の民を見たくば、麦州へ来よ
赤楽の治を確かめたくば、麦州へ
そんな歌が、他州にも拡がり。
尭天にも届いているだろう。
私の働きは、こんなにも大きく拡がったのに。
胸に燻る想いは、行く先すら持てない。
河は海に向かって流れるというけれど。
時に、大きな淵に行き当たって流れを失うことがある。
私の想いは。
流れる先を失った、淵のようだった。
長い時をかけて溜まって淀んでしまった、淵のようだった。
「陽子。」
彼女にとって自分は永遠に、弟のようなものなのだろう。
彼女の治世の黎明を支える人の群に、自分は入ることが出来なかった。
子供だったから。
だからここで躍起になって、彼女が望んだ民を、育てているのかもしれない。
想いの流れていく先を、他に見つけられなくて。
「失礼します。和州侯さまがお見えですが。」
部屋の外で近侍の声が聞こえた。
「ああ、今行く。」
和州侯が来たのは、松塾の復興の件だろう。
州侯としての働きは、まだ野望のすべてを果たした訳ではない。
大きな仕事はまだ、たくさん残っている。
少々の名声を得たからと、満足することは出来ない。
男はもう一度、尭天の方角に目を向けた。
そして、賓客の間へ向かうために、部屋を出ていった。
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