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千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは
鮮やかに紅葉した葉が舞い落ちる中に、浩瀚は立っていた。
休まず働きづめの毎日の冢宰を見かねた女王が短い休暇をくれた時、ふと思い立ってここへ来てみた。
人里を少し離れた山の中にある懐かしい建物は廃虚と化していたが、その裏手を流れる河は、以前と変わらず澄んだ水流を溢れさせていた。
この季節、河の周囲に立つ木々から紅に染まった葉が落ちて河に流れ込み、まるで河そのものが紅く染まったように見える。
「かような所で、何をしておる。」
ふいに声をかけられ、浩瀚は背後を振り返った。
「老師。」
かつて、まさにこの場所でさまざまな教えを受けた師である老人の姿がそこにあった。
浩瀚が黙って拱手する。
「行楽も娯楽も知らぬ男でございますゆえ、主上に休暇をいただいても他に来る場所が思いつきませんでした。」
答えた浩瀚に、遠甫が探るような目を向けた。
「よもや、松塾を再興しようなどと企んでおるのではあるまいな。」
穏やかな口調で問われた言葉に、浩瀚が小さく溜め息をついた。
「老師には、なんでもお見通しなのですね。」
松伯と呼ばれているこの老人が、慶国のために役立つ人材を育てては送りだしていた牙城である松塾は、いまや廃虚となって山中にたたずむだけである。
「殊勝な心がけじゃ。この老体に代わり、松塾の主宰を引き受けようと申すのじゃな。」
「意地の悪いことをおっしゃる。」
不本意そうな弟子を見ながら老人は笑った。
「誰が率いていくかは別にして、再興そのものすら、片手間には出来ぬぞ。」
慶国の再興という大きな仕事に取り掛かり、文字通り休む間もなく働き続けている冢宰に、さらに他の仕事が出来るとは思えない。
だが、浩瀚は小さく微笑んで師に答えた。
「旗振りは、柴望にやってもらいます。」
「ふむ。」
打診も何もしていないが、きっと引き受けてくれると確信を持っていた。
「老師、憶えていらっしゃいますか。」
眼下を流れる河を見つめながら、浩瀚が言う。
「松塾は、河の源となるのだと、老師はおっしゃいました。この河に落ちた一枚の葉が、やがて大きな海まで流れて行くように、国の礎を築く者を、次々と河に流し込んで国を潤すのだと。」
「そんなことを申したかの。」
「私は、松塾から流れる水流を、止めたくはないのです。」
浩瀚は行った。
新しい王が立ち、朝が立ち直りかけ、国全体が新しい奔流を作りつつあるこの時期に。
松塾からの流れだけを、せき止めたくはなかった。
「ふむ。」
遠甫も、黙って紅色に染まった流れを見やった。
国中で流れはじめている、新しい流れ。
「炎が流れているようじゃの。」
遠甫が、つぶやいた。
「赤い落ち葉が、まるで河を燃やしているようじゃ。」
「はい。」
まるで燃え立つ炎が、熱い水流をもたらしているかのような。
紅蓮の、奔流。
「暁の、色じゃ。」
新しい国の、夜明けのような、鮮やかな赤だった。
その紅の色を、浩瀚はまるで眩しいものを見るかのように目をすがめて見つめた。
「心まで熱くなります。」
その紅を見ると、心が騒ぎ立つ。
そんな浩瀚の呟きに。
老人が笑った。
肩を丸めてくっくと笑った。
「何か、おかしいですか。」
訝しげな弟子の声に、真面目な顔で遠甫は答えた。
「すまぬ。昔から熱くなるということを知らぬように思えたそなたが、心が熱いなどと申したので、つい珍しくて笑ってしもうた。」
何事にも冷静で知られる男の頬に赤みが差したように見えたのは、赤く染まった河の色が反射したのだろうか。
いつだって瞼の裏に焼きついて離れない、愛しいその色が。
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