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秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わがころも手は 露にぬれつつ
あら。
王気を頼りにその邑に入った時、廉麟は懐かしさに微笑した。
視察に出ていったきり王が戻らないという緊急事態に、黙っていられずに「私が探しに行きます。」と言ってみたものの、本当に探しだせるのかどうかは不安だった。
官たちはのんびりしたもので、主上もそのうちひょいとお戻りになるのではと楽観していた。
「まったく、この国のお国柄だわね。」
漣極国の民は、少々のことでは慌てない。
美点でもあるのだが、時に危機感がなさすぎると廉麟が不安に思うところである。
ほかならぬ廉王が、その最たるものであるのだが。
もっとも、この時期に王が視察に出る理由は明白である。
中秋。
稲の刈り入れ時。
廉王はこの時期、国中の穀倉地域を巡っては、その年の収穫を確認する。
廉王は何も帳面を手に巡っている訳ではないのに、雨潦宮に戻って来た時にはどこそこの地域は収穫が少ないから多かった某の地域の分を回したらよかろうなどと、的確に指示する。
何事ものんびりゆったりな漣国の官が各地の収穫高を記録にして報告してくれるのは時に翌年の田植えが終わってからだったりするのだが、一応上がって来た記録を地官が確認すると、前年の秋に王が目で見ただけで報告した内容とほぼ一致している。
廉麟は何度か王自らが視察になど行かずとも良いし危険も伴うと言ったのだが、廉王は心配ないよと笑うだけで聞き入れてくれない。
そして冢宰はじめ官たちなど「地官の報告より主上のご道楽の結果のほうが正確なのだから実利も伴うし良いではないかはっはっは。」という具合で話にならない。
もう、他国では官吏とは融通が効かない人間の代名詞にもなっているというのに・・・・
結局、気をもんだり心配するのは廉麟一人で。
「割に合わないわ。」
時に不満になるのであった。
それでもあまりに長いこと王が帰って来ないので、廉麟がついにしびれをきらして探しに出たという次第である。
だが、その邑に入った時、廉麟は王がここをしばらく離れられなかった理由を察知した。
この邑には、見覚えがある。
そう。
ここは、王になる前の鴨世卓が暮らしていた邑だ。
小さいが小ぎれいな家と、それに相応しい大きさの田畑が、彼の全財産だった。
それを取り上げ、彼が予想だにしていなかった役目を押し付けたのは、自分だ。
廉麟は、涼やかな目元をわずかに曇らせた。
だが、歩みは止めない。
細かい道順まで正確に、憶えている。
あの日、「王がここにいる!」と確信して夢中で歩いた道すじを。
見覚えのある田圃が、見えて来た。
そして既に刈り入れを終えて綺麗に片付けられた田圃の片隅に、寂れた納屋があった。
藁葺きの屋根は半分剥げ落ち、木の壁は今にも崩れそうな。
そっと歩みを速め、覗き込むと果たして、廉麟の探していた人物がそこにいた。
「主上。」
小さく問いかけると、藁束の上に寝ていた男がびくりと跳ね起きる。
「・・・・廉麟。こんなところまで、よく来たね。」
相変わらずののんびりした口調だが、少しだけその顔色には反省が見える。
「心配させてしまったかな。」
「・・・・いつもよりも長くお戻りにならないんですもの。」
「すまない。つい、この地に来てしまってね。」
ふうと溜め息をついて、廉王が苦笑した。
「ついみんなと収穫を手伝ったりするうちに・・・。」
そして一国の王が、悪戯を見つけられた子供のようにしおれる。
「脱穀、租税への仕分け、市場への出荷まで手伝っちゃって、昨日収穫を祝う邑祭りにまで参加しちゃったんだ・・・・。」
廉麟は一瞬の間沈黙した。
そして、ほっとしたように笑いだした。
「主上らしいこと。」
「ごめんよ、廉麟。」
結局、道々口の中で繰り返して来た憤激や叱責の言葉が消えてしまうのだ。
・・・やっぱり、割に合わない。
「地官の目を誤魔化して租税分をちょっとだけ少なく積む方法なんか、俺がいた頃と変わってなかったなあ。」
「主上!」
「あはは。ちょっとだけだよ。」
そう笑っていた廉王が、一瞬顔を歪めて肩を縮めた。
そして、自分の額に手を当てる。
「ああ冷た。屋根に降りていた夜露が落ちて来たんだな。」
廉王がそうして袖で額を拭くと、袖が濡れた。
「主上・・・、この納屋は・・・。」
廉麟が、ふと何かに気付いたように辺りを見回す。
「そうだよ。これは俺の納屋だ。家と田畑は他人のものになってしまったけど、この納屋だけがそのまま残っていた。」
「まあ・・・・。」
廉麟は懐かしさも込めて粗末な小屋の中を見回したが、ふと、寂しい気持ちになった。
彼から、家も田畑も奪ったのは他でもない彼女自身だった。
だが、主の明るい笑顔に少しだけほっとする。
「ここが俺の、俺だけの城だったんだ。」
「そういえば、ここは主上の匂いがしますわ。」
それは廉麟にとって正直な言葉だったのだが。
その言葉に廉王は、やや戸惑った表情を見せた。
「ほら、この藁束だって。」
廉麟は自分の脇に積み上げられている藁の山に座り、寝転がるようにして頬を寄せた。
「主上の匂いがしますわ。うふふ、わたくしにはわかるんです。」
麒麟だから。
いつだって、この匂いが恋しいのだ。
だが、彼女の主はそこで、困ったような、やや怒ったような声を出した。
「廉麟、そんなはしたない真似はやめなさい。」
「え・・・?」
思いがけない言葉に、廉麟は起き上がった。
金糸の髪に、藁が一本絡まっていた。
「はしたないですって・・・?」
「藁に寝るなんて、賎しい女のすることだよ。台輔が、そんな真似をしてはいけないよ。」
「・・・・・。」
廉王の声は穏やかだった。いつもの、優しい声だった。
けれど、廉王が人間の貴賎を言うのは、廉麟の記憶にある限り初めてだ。
おかしい・・・・
廉麟の心にあった不安が、疑惑へと変わった。
「主上は、ここからお出になりたくなかったのですね。」
知らず、冷たい声が出てしまった。
故郷(ふるさと)の、先刻自分の城だと言ったばかりの場所で、わたくしを突き放すようなことを言うなんて。
「主上がしていることはなんでも、わたくしにとっては尊いことなのに。」
「廉麟、違うんだ・・・」
困ったような、戸惑ったような廉王の表情は変わらない。
「主上はここをご自分のお城だとおっしゃったのに、わたくしを入れては下さらないのですね。」
「廉麟!」
叫んだ廉王の声は、彼らしくなく激高に近く、そして顔中が真っ赤になっていた。
その赤い顔が怒りの為だと思った廉麟は、悲しみのために顔を歪めた。
そして愛する主のもとに寄ると、そっと抱き付いた。
縋るように。
見捨てないでくれと、懇願するように。
「ひどい方。わたくしはいつも、この主上の匂いが恋しくて、おそばにいられることが最上の幸せなのに。」
「廉麟・・・、あの・・・、」
離れてくれと言おうとして、だがその言葉がさらに廉麟を悲しませるだろうと予想して、廉王はさらに困惑したまま黙り込んだ。
彼女は、知らない。
この地方では専ら、納屋は男女の逢い引きの場所なのだとは。
この地方の若い農夫にとっては、時に一間二間しかない空間に家族で暮らす家よりも、納屋のほうが城なのだ。
一人で考え事をする場所であり、家族に見られたくないものを隠す場所であり。
そして、主に収穫の祭りの後は。
刈り入れの終わった田圃に火を焚いて、皆で回りながら踊って、その時に若い男と女はそれぞれ好ましい相手を見つけて結婚する。
それが、この地方の習慣であり、そんな男女が二人きりで逢う場所は専ら納屋だった。
王に選ばれてしまった時点で、自分には縁のないものになってしまったが。
けれど。
昨晩、楽しそうな祭りの輪を見ながらずっと自分が誰を想っていたのか、彼女は知らない。
かつて自分の城だったこの場所で、ずっと誰の姿を思い浮かべていたのか。
「廉麟、離れてくれないか。」
そっと優しく肩をたたいてやりながら宥めるように言っても、廉麟はうんと言わなかった。
「嫌です。離れません。」
・・・・・困ったなあ。
廉王は途方に暮れて、真上に目をやった。
穴の開いた天井から、暮れかけた群青色の空が見えた。
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