あひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり




それは、いきなりだった。
歩いていたところをいきなり羽交い締めにされ、口を押さえられて物陰に連れ込まれた。
相手はおそらく、三人くらいの男。
油断をしていたのかもしれない。
登極当初ならばともかく、百年をとうに過ぎていたから、護衛を連れずにお忍びで街に出ることも稀ではなくなったし、心配性の台輔が苦言を呈しても、それをかわすことにも長けてしまっていた。
しかし、この国の女王である少女はその時、自分が何をされようとしているのか、はじめ認識出来なかった。
それほどに、無自覚だったと言わざるを得なかった。
着物の裾から男の手が入り込み、脚を撫でられた。
瞬間、背筋を這い登る、吐き気がするほどの嫌悪感。
「いや・・・。」
抵抗しようとした細い両腕を仲間の男たちに封じ込まれた時、鈍い音がした。
襲撃者たちが倒され、彼女は自分の身体が宙に浮いたのを感じた。
誰かに横抱きにされ、どこかへ連れられようとしていた。
恐怖と、先刻から身体中を這い回る嫌悪感とに支配され、少女は口をきくことにも難儀した。
やがて、先ほどの現場からやや離れた場所で、彼女は見慣れたすう虞の顔が目の前にあるのを辛うじて認識し、やっと息を吐く。
しかし背後から、よく知る男の聞きなれぬ険しい声が降った。
「どういうつもりだ。珠晶。」
「利広・・・?」
振り返り、辛うじて男の名前だけを口に出来た。
「なんで一人であんなところにいた。ああいう目に遭うのが想像出来なかったか。」
いつも飄々として、おどけたような口調で話すのしか聞いたことがない男の厳しい表情を、怖いと思った。
「あ・・・。」
説明しようとするのに言葉にならない。
そんな彼女を見た男は、ひょいと少女を抱え上げ、すう虞に乗った。



街の舎館の一室に取られた利広の部屋は、広くもなく狭くもない、ごく一般的な部屋だった。
温かい茶を一杯飲んだだけだったが、珠晶はある程度落ち着きを取り戻していた。
「大丈夫だと思っていたの。」
だが、声は小さかった。
「誰も、わたしをあんな風に触ったりしなかったから。」
子供だから。
この国の王たる珠晶の風貌は幼い少女で、損もしたが得もした。
治水工事の采配に助言をしようにも、子供の言うことなどと相手にされないこともあった。
一方で、まだ立ち直りきっていない状態の国を見て回った時、小さいのによく頑張っているからと農民たちが米の飯を捧げ持って来たこともあった。飢えで、子供が死んだばかりだという村なのに。
「珠晶。」
利広は、静かに言った。
「君をどこかに売り飛ばそうと攫う人間は、君がいつまでもその姿だとは思っていない。それに。」
真剣な表情で、だが吐き捨てるように、利広は言った。
「世の中には、小さな女の子に触ろうとするろくでもない人間が、少なからずいる。」
どちらも、実に、「らしくなかった」。
少女は黙ったまま俯いていた。男は、先刻から一度も笑顔を見せなかった。
ふだんの彼らの様子からは、程遠かった。
「迂闊だったわ。」
珠晶の声は、震えていた。
「反省するわ。」
声だけではなかった。小さな肩が、小刻みに震えていた。
利広はほんの少しの間、その震える肩を見つめていた。
やがて、そっと手を伸ばすと珠晶の小さな身体を腕の中にくるみ込んだ。
「珠晶。」
囁くように、名を呼ぶ。
大切なものをその手に乗せるように、慈しむように彼女の名を言の葉に乗せた。
「珠晶。」
いまの彼女に必要な、唯一のもの。
「珠晶、忘れるんだ。」
そっと、囁く。
「今だけここで泣いて、忘れるんだ。」
「わたしをあんな風に触る人は、いないと思ってた。」
か細く、腕の中で珠晶が言った。
消え入りそうな、小さな声。
だがそれは、彼女が見かけ通りの小さな少女だったならば、決して言わないはずの言葉だった。
「そんな男がいたのなら、僕は心配なんかしない。」
厳しい声音で、利広は言った。
「過去に君を抱いた男がいるのなら、こんな心配はしないよ。もしそうなら君は、触られて不快な相手とそうでない相手がいるのを知っていることになる。」
「・・・・・・。」
「けれど、もし君がそれを知らないのなら、今日の不快な記憶だけが残る。そして君は、男に近付かれるだけで嫌悪感を催すようになる。」
あくまで優しげに、だが厳しい言葉を利広は言う。
「世の中の半分は男だよ。それなのに男に触れることが出来ない王。そんな王に、天意はついてくるかな。」
「!」
びくりと、珠晶の肩が震えた。
言われていることの重さが、いきなり堪えた。

わたしは、王なのに・・・?

慈しむように、男が少女の頬に口付けた。
それだけのことならば、決して二人の間に今までなかったことではないのだが。
珠晶は、弾かれたように顔を上げた。
どういう訳か、身体が熱くなった。
「離して。」
混乱を宿した声音で、小さく言った珠晶に、利広は優しく、だがきっぱりと答えた。
「離さない。」
そして抱き締める腕を、強くした。
「それとも珠晶は、僕にこうされるのは嫌?」
囁くように、問う。
「嫌だというのならば、離すよ。珠晶が僕を不快だというのなら、仕方がないからね。」
「ふ、不快だなんて・・・。」
珠晶は口ごもった。
「忘れるんだよ。珠晶。」
再び宥めるように、利広が言った。
「何もしないから、泣くんだ。そして忘れるんだ。」
愛おしむように、利広は珠晶の髪を撫でた。
少女は力を抜いて、男の腕に身を預けた。
珠晶は、泣かなかった。
ただ、じっと利広の腕の中に収まっていた。
「・・・・・の。」
やがて、腕の中から小さく聞こえた声に、利広は首をかしげる。
「なに、珠晶?」
そっと耳を、近づけた。
「何も、してくれないの?」
小さな小さな、声だった。
「してほしいの?珠晶?」
問いに、珠晶は答えなかった。
答える代わりに、顔を上げた。
起き上がって、男と目を合わせた。
子供の背の高さにまるでそぐわない、潤んだ瞳を男に向けた。
「利広にとっても、わたしは小さな子供?」
桜貝が震えるように、唇から漏れたその言葉は。
とうてい、子供のものとは思えない艶が乗せられていて。
けれどその必死の問いは、大人に下手なはぐらかしを許さない、子供の真剣な問いのようで。
「いいや。」
一瞬も目をそらさず、利広は答えた。
そしてそっと唇を寄せ、珠晶の小さな唇に重ねた。
少女はびくりと肩を震わせたが、逃げようとしなかった。
逃げるかわりに、男の首にその細い腕を回した。




目覚めた時、珠晶は自分がきれいに服を着せられていることに気付いた。
続いて、男の姿がないことに気付いた。
起き上がろうとし、しかしうまく起き上がれないことに気付き、それでも辛うじて起き上がって、小さな手を臥牀の上についた。
手をついて、小さく震える自分の手を、しばらく黙って見つめていた。
男が姿を消したことを、納得して受け入れる自分がいるのを、珠晶は感じた。
そんな自分を、おかしいわよと非難する別の自分がいるのも、感じた。
それなのに、男が姿を消したことを詰る自分が、いなかった。
「あ・・・。」
声を、出そうとした。
けれど、出なかった。
声を出そうとしたのに、漏れ出たのは嗚咽だった。
女が四人、せめぎあっていた。
世の道理を聞き分けるにはまだ幼なすぎる、小さな少女と。
花が咲き誇るような、艶麗な笑みを浮かべる女と。
子供を育てあげた安心感に落ち着いたような母親と。
静かに、生の終わりを待つ、老女と。
彼女らは互いに、時に主権を主張しあい、
時に押し付けあい、
時に譲り合い、
珠晶の小さな身体の中で、声なき葛藤を繰り返す。
「あ・・・。」
珠晶は、喉を絞ってでも、声を出そうとした。
それは、絞るような泣き声になった。
臥牀に手をついたまま、珠晶は一人で泣いた。




全く「いつもの通りに」姿を現した男に、珠晶はやや曇った瞳を向けた。
利広は、すう虞に乗ったまま姿を現し、窓からすいと入り込んだ。
飄々とした笑顔がないのが、ただ一ついつもと違うことだった。
「もう来ないと思ったわ。」
珠晶は、表情もなく言った。
表情を、つけることが出来なかった。
相応しい表情が、わからなかったのかもしれない。
利広は一つ、溜め息をついた。
「珠晶は、僕をとても悪い男にしたいのだね。」
その小さな言葉に、珠晶の瞳が鋭く光った。
「人のせいにしないで。あなたが、悪い男になりたいのでしょ。」
言ってから、珠晶は唇を噛んだ。

なぜ、わたしはそのことが、わかってしまったのだろう。
わからないほうが、あたりまえなのに。

男は、小さく笑った。
それは初めて見る、珠晶の知らない笑い方だった。
「そうだね。」
利広は、よりにもよって肯定した。
否定されたほうが、救いがあったのに。
利広は、かがんで膝をついた。
珠晶の目の高さになるために、いつもそうするように。
「あんなことしないほうが、良かった?」
「ううん。」
問いに珠晶は即座に、否定した。
「痛かっただろう?」
「平気よ。」
珠晶の顔には、感情を表す表情が、相変わらず出なかった。
頭脳が、表情を選びあぐねているようだった。
「立って。」
珠晶は、無表情のまま言った。
利広は、訝しげに少女を見つめる。
「立って。」
珠晶は、繰り返した。
「わたしと話すのに、かがまないで。」
それは、話をするのには相当に不自然な体勢になってしまうのだが。
利広は立ち上がった。
珠晶は、執務室を支える大きな柱まで近付いた。
柱に小さな腕を回して、その大きな柱を支える台石に登った。
その無理な体勢は、平衡を保つにはいささか難しく。
倒れそうになる小さな身体を、利広が腕を伸ばして抱き留めた。
瞬間、間近で目が合う。
「こんどはいつ来るの。」
囁くような声で、珠晶が尋ねた。
濡れた艶が乗せられた、初めて聞く声だった。
・・・・さあね。
いつもなら、そう答えるのだけど。
それで、何の問題もないのだけど。
答えを言うことが出来ず、利広は靄がかかったような目で珠晶の大きな瞳を見つめた。
その大きな瞳が、そっと閉じられたと同時に、唇を合わせた。
紅の一すじも引いていないのに、自然に桜色に色づいている小さな唇に、激しく自分のそれを合わせた。
もう記憶もあやふやになるほど長い間目にしながら、一度も味わったことのなかったそれに。
柱に押し付けたまま抱いた腰は細くて、片手で軽く抱き上げられるほどに軽くて、もう片方の手でそっと触れた頬はあまりに瑞々しくて、それはまぎれもなく子供のもので。
ただ、合わせた唇から漏れる吐息と、返してくる舌の絡まり方と、そこに込められた熱さは、とうてい子供のものではなくて。
「ねえ、こんどはいつ?」
口付けの合間に囁かれる問いに答えられないのを誤魔化すかのように、男は少女の唇をただ貪った。




「あら。」
保翠院の視察を終えて清閑宮に戻って来た文姫は、回廊から庭院を眺めている次兄の姿を見つけて驚きの声を上げた。
「利広兄さま。帰ってらしたの。」
この兄は、ふらふらと放浪に出ては、家族が集まっている頃を見計らって能天気に「ただいま」と帰って来る。
まるで、全員に「おかえりなさい」と同時に言ってもらうために、旅に出ているのではないかと邪推してしまうほど。
皆が忙しく働いている間に、ひっそりと帰って来るなどということはまずない。
「珍しいのね。」
呟き、兄に近付こうとした文姫はしかし、思わず足を止めてしまった。
声をかけづらい空気を、感じて。

利広は、どこか昏(くら)い目をして、ただ庭院を眺めていた。








ぽぺさんがさらりとお逃げになってしまわれた「あひみての」歌意忠実バージョン・・・に無謀にも挑戦しようとしたら、男娼泰麒に並ぶ問題作になってしまいました。呪い師サマは穏当に(穏当?)延陽か、浩陽って呪っておられた気がするのですが、天の邪鬼な私に降って来たのはリコシュでした。いろいろ、言い訳やコメントもしたいんですが、やめます。
結論:彼らは、こうなっちゃいけない。(↑こんな風になっちゃうから)
リコシュ好きの皆様、こんなリコシュは嫌ですか?