沈愁 祥瓊は眉根を寄せて、つぶやいた。 「これ・・・どうしたらいいのかしら・・・」 美しく整えられた彼女の部屋の片隅には、そこに不釣合いな壺が鎮座していた。 しゃがみこんで、ごろりと転がっているそれを恨めしげにつついてみるが、びくともしない。 それは、戴国の麒麟から、慶国王に届けられた蜂蜜酒。しかし、中身が中身なので、本人には知らせず、握りつぶしてしまった。 が、握りつぶしてはみたものの、今度はこれが、相当始末に困る代物であることに気付いた。なにしろ、誰かにやるという訳にはいかない。欲しがる男は多いのかもしれないが、そんな気はさらさらないし、知り合いの女官にやるというのも気恥ずかしい。かといって、自分で飲むのも・・・ しかし、せっかく作られた蜂蜜酒を捨ててしまうなど、もっと。 「もっと、考えられない・・・」 そっと蓋をはずすと、馥郁と香りがあふれた。 人差し指の先を浸け、ぺろりと舐めると、甘味と酸味とが口に広がる。 「美味しい・・・甘口の酒ね」 そういえば、と思い出した。 (蜂蜜は、肌にいいのよ。) その昔、母がそう言って、よく蜂蜜を食べていた。蜂蜜酒も例外ではなく、時折女官に作らせては、飲んでいた。密かに盗み飲んでみたそれは、この酒よりは辛口に醸してあったような気がする。 それを、父に飲ませていたかどうかは覚えていないのだが・・・ 溜め息を漏らすと、祥瓊はすっと立ち上がり、目を伏せた。 そして、過ぎた日々をたぐり寄せてみる。 思えば母は、自分の美しさを維持したいという欲求を、ある意味、隠さない人だった。 外見は、父の好みに合わせて、地味な装いしかしていなかった。しかし――というよりは、その分、といったほうが正しいだろう。――それ以外のことに傾倒していったように思う。もちろん、仙籍に入れば、老いることはない。けれども、それではきっと満足できなかったのだ。 派手ではなくても、服も、紅、粉黛も、質のよい高価なものばかり、選んでいた。口にするものも、質素なようでありながら、金も手間もかかった物だった、と今は分かっている。形を取らない事にも、父に気付かれない程度に、しかし、相当の金を費やしてはいなかったか。 蜂蜜酒も、飲むのではなく、浴びるために作らせていたことも、あった・・・ 蜂蜜は、王宮には豊富にあった。それは、物品の集まる場所だったからこそであって、庶民の口に入る機会はそう多くない。 だからこそ、蜂蜜は・・・甘く薫り高いこの食べ物は、珍重されるのだ。里家に入ってから、それを知った。 あの頃は、ただ、そういうものかと思っただけだった。 胸が痛む。 「桓たいの話を聞いたせいかしら」 「俺がどうしたって?」 いつの間に来ていたのか、桓たいが戸口に立っている。 「なっ、何しに来たの!!」 「ずいぶんなご挨拶だな。」 桓たいは肩をすくめてみせた。 「顔を見に来たって理由じゃだめなのか?」 さすがに言い方がきつかったかもしれない。 「あのね、そうじゃないの。ちょっと考え事してたから・・・」 「ふーん?」 首をかしげた桓たいが、鼻をぴく、と動かした。 そういえば、この部屋には、蜂蜜酒がある。まずいことに、桓堆は鼻が利くはずだ。 「ねっ、何か飲む?お茶入れるわよ」 「?・・・ああ、もらうよ。」 急須に湯を注ぐと、部屋全体に香ばしいにおいが立つ。 これで、何とか誤魔化されてはくれないだろうか・・・淡い希望をかけつつ、茶碗を差し出した。 「はい、どうぞ」 「ありがとう」 桓たいは茶碗に口をつけたものの、祥瓊に視線を向けるのをやめない。 「どうかした?」 「いや、さっき、考え事をしてたって言っただろう。」 脈がはねる。 桓たいには、何の他意もないはずなのだが。 「ええっとね、」 視線を泳がせながら、考える。何と言えば、誤魔化せるだろう。 「ほら、」 当り障りのない所だけを言えば、いいだろうか。 「言ってたでしょ?貴方のお母様、蜂蜜酒を作って、お父様に飲ませていたって。」 「ああ、そう言ったな」 「幸せそうなご両親よね、と思って・・・」 「そうか?・・・まあ、そうかもな。」 何か考えるような顔をしていたが、やがて、にやりと笑った。 「それでか?こんなのがあるのは。」 「え?!」 桓たいは、例の「壺」の方へと歩み寄り、ひょいと持ち上げた。 「ついさっき、これを開けたんじゃないのか。部屋中にいい匂いがしてるぞ?・・・祥瓊は、分かってなかったかも知れないけどな。」 やっぱり気付かれていたのだ。 言わなければよかった、・・・かえって、何も言わなければ。 「これは誰かに飲ませるためか?それとも自分で?」 自分が、思わず立ちすくんでしまっていたことに気付く。 「ちっ違うのよ、それは、泰台輔が、陽子にってお持ちになったの」 「泰台輔が?主上に?」 怪訝そうな顔に、返す言葉もない。 れっきとした事実なのだが、、これでは誰が聞いても納得すまい。 ・・・駄目だ。 しゃんとしなくては。 「この前・・・丁度、あの話をしたばかりの時だったから、まさか陽子に持っていくなんて、考えられなくて、だから・・・」 ・・・駄目だ。ああ、 どうしても、口ごもってしまう。 「そうか。」 桓たいは壺を卓の上に置くと、蓋を取り、中身を一瞥した。 「つまり今、こいつの引き取り手がないんだな?」 「そうだけど」 確かに、始末に困ってはいるけれど、この話の流れから行くと・・・ 「じゃあ、俺が飲む。」 ・・・やっぱり。 「それは駄目」 頬が上気する。 「どうして。もともと作る気だったんだし」 「駄目ったら駄目よ!」 「そう言われると、かえって飲みたくなるなあ」 そう言うと、茶碗で中身をすくおうとする。 「止めてったら」 手から碗を取り上げようとしたが、逆に左腕だけで押さえ込まれてしまった。 「俺に力で勝てるとでも思ったのか?」 その顔は見えないが、耳に降ってくる楽しげな声に、顔がますます赤くなる。 「意地悪ね・・・」 祥瓊の言うことを、聞き入れる気はないらしい。そのまま、茶碗に汲んだ酒を干した。 「美味いじゃないか」 それは知っている。でも、どう返事をしろというのだ。蜂蜜酒の味なんて・・・ 「でもなあ、放っておくと、腐っちまうぞ。少なくとも、四、五日の内に飲みきらないと」 「勝手にすれば」 再び、壺から酒を汲み上げる。 「だから、祥瓊も飲め。」 「いや!」 「強情だなあ。美味いのに」 「・・・いや」 「困ったお嬢さんだな。」 「私、飲まなくていい」 「俺が飲ませたいんだ」 「!」 桓たいは酒を口に含むと、祥瓊のあごを取り、唇を開かせた。 「あ、桓た・・・」 二人の唇が重なる。 唇から、酒があふれた。 「飲み込め」 ごく、と白いのどが震えた。 息をつく間も与えられない。 「もっとだ」 桓たいは再び酒を含み、祥瓊の唇に舌を差し入れた。 甘露が、口角から頬へと流れた。 とろりとした雫は、頬に沿う骨張った指にも留まることなく、ゆっくりと落ちていく。 「首が、べたべた・・・」 思わず漏らした呟きに、男ははっと息を呑んだ。 「・・・っ、悪い・・・」 彼が目を伏せた、と思うのと、喉に熱を帯びた唇が触れたのは同時だった。 頸を伝っていく雫を、舐め上げられる。 唇が離されて、肩へ吐息がこぼれた。 「とろけそうだな」 とろけそう? 「わたしが・・・?」 桓たいの相好が崩れた。 「違う」 祥瓊の頬を両手で包み、額をあわせると、言った。 「俺の方さ」 |
******************************************************* 凍れる果実さまのミード泰麒編の続きです。いただいてみれば、桓祥編になっていました。きゃんきゃんっまたも素敵な攻め熊さん登場なのですvv |