「景王はおられるかえ?」
慶東国の冢宰は夜半、その声に呼びとめられた。
今は泰麒捜索のため、金波宮に多くの貴賓を迎えているが、このように話すのは一人しかいない。浩瀚は相手を見ないうちから、声の主がわかった。
「氾王様」涼しい所作で礼を返し、浩瀚は応えた。「主上は先刻お休みになられたかと存じますが」
「そうかえ」うなずいた氾王の表情がわずかに曇るのを、浩瀚は見逃さなかった。すかさず浩瀚は言った。「何か御用向きがおありならば、私からお伝えおきましょうか」
「用というほどのことはないのだよ。景王がおられれば、御酒でも共にと思うたまで。麒麟とのむのではおもしろみがない。かといって延の山猿やらとは、のむ気もおこらぬ」
「そうですか」
「あぁ、いっそそなたはいかがか。山猿とよりは余程美味にのめるであろう」氾王は言った。その視線に何か含みがあるのを感じ、浩瀚もまた微苦笑して頷いた。「お誘いいただき光栄の至りですね。お受けいたしましょう」

そして酒をくみかわすこととなったが、氾王の勧めた御酒は、しびれるように強かった。杯を傾けてかわす話は、いまだ見つからぬ泰麒のこと、片腕をなくした将軍李斎のこと、と気まぐれにうつろった。
「そなたとこうして酒を汲むのは、二度はない機会かもしれぬ・・・」氾王はささやき、問うた。
「一つ、聞かせてくりゃるかえ?」
浩瀚は氾王を見、応えた。「何なりと」
氾王は静かにいった。
「そなたならできたのではないかえ?
…なぜ予王を救わなかった」
氾王にすらも気づかれない一瞬、浩瀚は動きをとめた。ただ一瞬のことで、浩瀚は再び酒杯を傾け、いう。
「どのようにお答えしても、ご納得されますまい。――たとえまことを答えても」
氾王は強い視線を浩瀚に向けていった。
「慶の者ではないゆえ、そなたを咎める権も何ももってはおらぬ。しかし、ただ知りたいのじゃ」
氾王は続けた。「死なぬ王朝はどこにもない。範とてその一つ、我が王朝が揺らいだときに臣がどのようにするか、知りたいだけじゃ」
「李斎殿の例で充分ではございませぬのか?」
「そうやもしれぬ。しかし、そうでないやもしれぬ」長い睫を伏せて、氾王は杯を干した。
「…遠まわしにおっしゃられるな。氾王様がその答えをお知りになりたいのは、そうした理由からではないでしょうに」浩瀚は剣呑な笑みを浮かべた。酔ってはいない。頭はむしろ冴えていた。
「真意は、私が、主上を畏れおおくも」浩瀚は言いかけて、氾王に遮られた。
「予王のように見殺しにすまいか、ということ」
氾王は艶麗な笑みをひらめかせたが、表情は冷ややかに続けた。「だから問うている。もしそなたが陽子を予王のごとく扱えば、そのときはこの氾王が許さぬぞえ」
「…そのときは私を車裂きにでもなさればよろしい。その前に私は、自ら命を絶っていることでしょうが」表情にそぐわぬ涼しい声でいう浩瀚に、氾王は薄い微笑を返す。御酒の残りはわずかになっていた。最後の一杯を杯に受けたところで、氾王は気配に気がついた。
「主上」薄闇から異形――使令が現れた。氾麟がよこしたのだろう。使令がささやく。「気配が、見つかったと」
「泰麒のものに間違いはないかえ?」氾王は杯を置き、問い返す。
「間違いございません」使令は答えて、再び薄闇にとけるようにいなくなった。氾王はゆったりと立ち上がり、浩瀚に言う。
「答えは次の機会に聞かせてくりゃれ」氾王はそれ以上は、浩瀚を顧みることなく、房室を出た。浩瀚もまた、酒が残ったままの酒杯を置く。もはや房室の外にすでに見えない氾王の、その背に向けて低く答える。
「ええ、いずれ」
浩瀚は急ぎ房室を出た。




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氾王vs浩瀚アブサン(とは明記されていませんが、coさんの絵がベースですので)編を、たろ様が掲示板に書いて下さいました。やはりこのなんともいえぬ冷気がたまりません。それにしても、冒頭から、景女王の寝所に赴きかねない氾王をすかさず牽制する冢宰、ぬかりがないです。この会話が、あの泰麒捜索の幕間の一瞬、という舞台設定にもさらに冷気をももたらします。上手いですたろさん。ご参加ありがとうございましたvv