火の酒


 玄英宮にある正寝の一室で尚隆は小卓に置いた酒瓶の中身を酒杯に注いだ。酒の 相手はいなかった。尚隆は酒杯をあおると少しだけ眉をしかめ、酒瓶を見つめた。
瓶の口は細く長く、赤い蝋が滴るように覆っていた。中の液体は琥珀色をしてい た。それは常世の代物ではなかった。
 尚隆は口の端で笑うと酒瓶を手にして堂室を出た。そして愛騎のたまを駆って一 人金波宮を目指した。

「こんな夜更けにおいでになるとは何事があったのです?」
尚隆が金波宮に辿り着くと陽子は息を弾ませながらも真剣に問い掛けて来た。
「なに、珍しい酒が手に入ったのでな。酒の相手を探しに来ただけだ。浩瀚はいる か?」
陽子は眼を見開き、心底呆れ返っていた。
「官邸にいるとは思いますが、それにしても珍しいご指名ですね」
「六太に珍しい酒を持ってこいと言って持ってこさせた物なんだが、うちの連中は 誰も飲みたがらないんでな。奴なら気に入りそうだと思いついて持ってきたんだ」
「それは、わたしも興味がありますね。ご一緒してよろしいですか?」
尚隆は眼を見開いて陽子を見た。
「酒は飲めるのか?」
「少しだけなら」
陽子は肩を竦めて言った。
「まあいい、案内しろ」

 二人の貴人をを迎えた浩瀚は最初は驚いたものの、来訪の意を知るといつもの微 笑を浮かべて招き入れた。そして、己は三人分の酒杯と軽い肴を用意して来た。
「こいつだ」
尚隆が懐から例の瓶を取り出して卓子の上にどんと置いた。
「蓬莱の酒ですか?」
浩瀚が聞いた。
「違うらしい。向こうの他の国の酒だろう」
「メーカーズ・マーク?」
ラベルを見て陽子は首を傾げて言った。
「知っておるのか?」
「まさか!瓶にそう書いてあるんですよ」
「俺に英語は読めん!」
「原料は玉蜀黍、原産国はアメリカとありますね。向こうで一番豊かな国だと主上 からお聞きした記憶があります」
浩瀚は瓶を持ち上げ、裏に貼ってあるラベルを見て言った。
「じゃあ、多分バーボンだろう。アメリカの映画や小説にはよく出てくる」
浩瀚が三つの酒杯に琥珀色の液体を注ぐと陽子は酒杯を掲げた。
「奇妙な組み合わせの夜に!」
言って陽子は一気に酒杯を傾けた。
「よせ、陽子!」
尚隆が叫んだが間に合わなかった。陽子は酒杯を卓子に叩き付けて頭を抱え、卓子 に突っ伏した。
「何と言うか、熱くて焦げ臭くて、火のような酒だな。すまない浩瀚、水をくれ」
浩瀚は水差しから別の器に水を注ぎ、陽子に渡した。尚隆は陽子の言葉にくつくつ と笑った。

「言い得て妙な譬えだ」 尚隆の言葉に浩瀚は酒杯を口に含み、酒瓶を眺めて薄く笑った。
「貴方がこの酒をわたしに持ってきた理由がわかりましたよ」
「気に入っただろう?」
尚隆は人の悪い笑みを浮かべて、酒杯を口にした。
「ええ、とても官能的な酒ですね」
浩瀚の言葉に陽子は視点の定まらない碧の瞳を向けてきた。
「どういうことだ?」
「主上にとっては意味のないことですよ。貴方の存在はこの酒よりも強烈なのだか ら」
陽子は前髪を掻き上げて唸った。
「もっとわかりやすく言え!今のわたしには面倒な考え方はできないぞ」
「要は、本物にはかなわんということだ」
尚隆が笑って言うと陽子は上目遣いで睨め付けてきた。
「二人ともわたしを子供扱いしているな!」
言って陽子は口元に手を当て、欠伸をすると卓子の上に放り出した腕の上で眠って しまった。浩瀚は外袍を脱いで陽子に掛けた。
「簡単にご説明すると貴方を手に入れることを許されない男の戯言ですよ」
浩瀚は陽子に向かって言った。尚隆は鼻先で笑った。
「お前は今の地位を捨てればその望みが叶うだろう?官位に執着はなかろうが」
「その行為が必ずしも報われるわけではないでしょう?今の地位ならばこの方の側 に在ることができます。それに、この方の力にもなれる」
「そんなことでは他の男に盗られるぞ」
「仕方ありませんね。選択権は彼女にある」
「陽子が俺に惚れたらどうする?」
尚隆の挑発的な視線に浩瀚は口の端で笑った。
「それだけは断固阻止しますよ」
「ほう、どうやってだ?」
「この方が泣き叫ぼうが、わたしを憎もうが、この方を組みしだき、この腕に抱き ます。そして、わたしを罷免すれば貴方を弑虐すると脅すのです。そうすれば貴方 に会おうという気はなくなるでしょう」
尚隆はくつくつと笑った。
「お前を討てばその企みは阻止できるぞ」
「この方の周りにいる者でわたしを討てるのは貴方か、我が国の禁軍左将軍くらい です。貴方はご自分の国のためにわたしを討つことはできません。そして、友人で もあるわたしを将軍に討てという命令はこの方には下せませんよ」
「まったく、気楽な奴め!」
言って尚隆は椅子から立ち上がり、陽子を抱き上げた。
「帰るついでだ。陽子を正寝へ運んでやる」
浩瀚も椅子から立ち上がった。
「一国の王にそんなことはさせられません。わたしがお運びしましょう」
「大僕もいるんだ、不埒な真似はせんさ。お前にはその酒を置いていってやる。陽 子に振られた時のためにな」
言って尚隆は堂室の外に控えている大僕に声を掛けて冢宰の官邸から立ち去った。
 一人の残った浩瀚は卓子の瓶を見つめていた。眼の覚めるような紅はかの人の髪 のようで、琥珀の色はその肌を思い起こす。口に含んだ芳香は陽と土と草の匂いで 下界への郷愁を誘い、えもいわれぬ甘さに虜になる。そして、その激しさと熱い刺 激はかの人の気性そのものだった。貴方が一人の男を愛したら、その男はこの酒以 上に貴方に酔いしれ、虜になるだろう。
 浩瀚は椅子に座り、背もたれに体を預けると前髪を掻き上げ、天井を仰いでから 眼を閉じた。
「重症だな」
そう独白してくつくつと笑った。


(了)



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翠玉さんからバーボン編です。バーボン!!さすがに私もバーボンは嗜んでないんですが、西部劇の世界ですね。孤独なガンマンと、オットコ前な好敵手がバーの宿り木に止まって、奥にいる美女を巡って牽制・・・(←偏見入りまくり)
対照を成す二人の男の緊張感がさすが翠玉さんです。