燗酒


 手にした小さな杯に注がれた酒を一口含んで、陽子はにこりと微笑んだ。
「暖かい」
 底冷えのする雁国の冬。雲海の上といえども夜には深々と冷え込んでくる。特に今日は日中下界で雪が降り夜になって晴れ上がったため、下界の冷たさが雲海を通して這い上がってくるように感じられた。
 そんな寒さに配慮してか、今日は後宮の中でも普段はあまり使わない堂室を女官が整えてくれていた。あまり慶には見られない形の部屋で、床の上に更に一段高くなった床が設えられられている。本来の床と高くなった床の間に暖かな湯が通され、暖房の役目を果たしているらしい。
 高くなった床の上には一面に毛皮が敷かれ、低い座卓が置かれている。常に鞜を履き椅子を使う生活様式に慣れた陽子は、裸足になり床に直接座るだけでどこか懐かしく寛いだ気分になった。
 そこへもってきて、尚隆は部屋の中に火鉢を持ち込んで湯を沸かし、その湯の中で酒の入った小さな壷を暖め始めたのだ。言わずと知れた燗酒である。尚隆が手際よく準備を進めていくのを面白そうに見ていた陽子は、程よく暖まった最初の一杯をもの珍しそうに口に運んだ。
「蓬莱では見たことはあったけれど、実際に飲んだことはなかったんです。なんだかおままごとみたいで楽しいですね」
 手の平にすっぽりと収まってしまう小さな杯を弄りながら陽子は笑った。
「器が小さくないと飲み干す前に冷めてしまうしまうだろう」
 穏やかに微笑む尚隆の手から壷――この場合徳利と呼ぶべきだろう――を取り、陽子は尚隆に酒盃を持つよう促して酒を注いだ。
「うふふ」
「随分楽しそうだな。一口で酔ったのか」
「ううん、あの、蓬莱にいた頃テレビとかで見て、大人になったらこうやって旦那さんと向かい合わせでお酒を飲んでみたいって思ったなって。すっかり忘れていたのに思い出しちゃったから、なんか可笑しくて」
 陽子の両親は、仲は悪くなかったが一緒に酒を飲み交わすような関係ではなかった。それを嫌悪していたわけではないが、どこかでもっと寛いだ夫婦関係を夢見ていたのかもしれない。それがこんな思いもしない形で実現するとは。
「良かったな」
 短く言って尚隆は陽子の笑顔を見つめ、自身も幸せそうに微笑んだ。
「ほら、もっと飲め」
 注がれた酒を陽子は楽しそうに口にする。
 もちろん陽子も尚隆の杯に暖かな酒を注ぎ、それを尚隆が乾すのを嬉しそうに見上げてはまた注ぐ。
「雁の人はみんな、お酒を暖めて飲むの?」
「ああ。雁の冬は冷えるからな。熱い酒が身体を温めてくれるんだ」
 座卓に整えられていた上質な肴をつまみながら他愛のない会話を続けるうちに、陽子の頬がほんのりと薄紅に染まった。
「あふっ、暑くなっちゃった」
 部屋着の襟元を広げて扇ぐ仕草をすると、陽子はふわりと立って窓を開けた。
 冷たい風が流れ込むと、いかに室内に酒の匂いが立ち込めていたかが改めて感じられる。
 床が高い分、本来は腰の高さの窓が床に座ったままちょうど外を見るのによい高さに来ていた。陽子はそのまま窓際にぺたりと腰を降ろした。
「いい気持ち〜」
 窓枠の下にはすぐに雲海が広がり、静かに波を打ち寄せている。その下を覗き込んだ陽子は明るい声を上げて尚隆を振り返った。
「ねぇ、見て、すごく綺麗」
 雪に覆われた関弓の街並みが月明かりに白々と光っていた。ぽつりぽつりと灯火が見えるからには、まだ人々が完全に寝静まる時間ではないのだろう。
 陽子の隣にやってきた尚隆も真っ白な夜の街を見下ろし、次いで陽子に目をやって低く呟いた。
「雪月花だな」
「? 雪も月もとっても綺麗だけれど、花は?」
 不思議そうに見上げた陽子に尚隆はしれっと答えた。
「お前が花だ。紅い花だな」
 たちまち一層頬を紅くして陽子が唇を尖らした。
「もう‥‥。すぐそうやってからかう」
「からかってなどおらんが」
 尚隆はついと腕を伸ばして陽子の顎を捕らえると、軽く啄ばむように口づけた。
 目を閉じて口づけを受けた陽子は唇が離れるとゆっくりと目を開き、うっとりと尚隆にもたれかかった。そのまま目を雲海に転じてぽつりと呟く。
「ここからあのお酒を撒いたら、下にいい匂いの雪が降るのだったらいいのに」
 華奢な肩を抱いたまま、尚隆が苦笑した。
「それは無理だな。雲海の酒が移るくらいなら、まず雨に塩が混じっている」
「そうかぁ」
 残念そうに言った陽子は、未練がましく続けた。
「じゃあ、禁門まで降りてそこから撒いてみたら‥‥」
「こらこら」
 本当にやりかねないと尚隆は陽子の肩を抱く手に力を込めた。
「お前、もう酔ってるから禁門まで歩けないだろう」
「う〜ん‥‥」
 酔いが回ったのか、陽子はとろりと答えた。
「じゃあ、班渠を呼んで連れてって貰おうかなぁ‥‥」
「おいおい」
 尚隆は呆れたように言うと手を伸ばして窓を閉めた。
「ほら、もう冷えるぞ」
 暖かな火鉢の近くに陽子を抱えるように連れて行き、座らせる。気持ちよさそうに身体を摺り寄せた陽子に尚隆はそっと尋ねた。
「なんでそんなに下に酒を降らせたいんだ?」
「だって‥‥、私ばっかりこんなに幸せなんだもの。みんなも幸せだといいなと思って‥‥」
 酔いに潤んだ碧の瞳に見上げられた尚隆は一瞬呼吸を止め、次いでゆっくりと息を吐き出しながら囁いた。
「ああ、そうだな」
 尚隆の同意に陽子は嬉しそうに微笑み、尚隆の背中に細い腕を回した。


(了)




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ぽぺさんによる熱燗編、熟年夫婦な尚陽です・・・って違う?(だって、無性に「村●雄治&高▼礼子」(◆桜)のCMが目の前を・・・)